「じゃあ、またね」
 車から降りる前に、首を少しひねって顔を向かい合わせる。久しぶりに一緒にはしゃいだあなたと。

 ハンドルを握っていた手。
 いつもはパソコンのキィを叩いているその手。
 自宅で私じゃない女の人に食事の仕度をする手。
 夜は、たいていスーパードライの缶を握っている手。
 長い階段をのぼる時、すっと差し出してくれた、手。

 何もものを言わずに、その大きな掌が私の顎先を唐突に包んだ。
 ずきん。と何かが疼く。

 きれいな指は、風に弄ばれてくちびるにかかっていた髪をするりとはらった。
 その時間は、一秒たらずのはずなのに。

 今もくちびるに指をあてると、あなたのあたたかくて、乾いた指の感触をはっきりと思い出せる。

 私のくちびるに。

 新年度に人事移動があって、直属の上司と組んで仕事をしたり、係わりを持つことが多くなった。

 ダメ男だと思ってた、あの上司。
 はじめの頃は、苦手なひとだった。
 よく頼まれごとを忘れるし、出張に行く前に破れたズボンをホチキスで留めて出かけるし、顔を会わせる四日のうち三日は寝癖がついてるし、上からの指示にはYESマンだし、いつもすみませんって言ってるし。

 だけど、気付いた。
 ダメ男の“ふり”をしてるんだって。

 一緒に過ごす時間が長いと、恋に落ちやすいという法則は、あながち間違ってないなあ。

 ただその法則をふと思い出しただけで、私が落ちたわけじゃあないけど、ね?

 久しぶりに会ったひとが、変わらぬ笑顔をくれ、変わらぬお酒を頼むのを見るのは、嬉しく、そして安堵する。折角気合を入れたあたしは、すぐに油断してしまう。大人ぶる準備はできていたのに。

 だけど、久しぶりに会ったひとが、数年前と変わらぬ話題ばかり口にし、あの頃と変わらぬふるまいをするのを見るのは、切なく、少し落胆する。折角手元には、冷えたチンザノがあるのに。

 不変は時に素敵で。
 なのに、残酷かもしれない。