こころの水先案内人、心みねこです
サッチーさんのブログをご紹介
↓
内容は、宗教をしていた話です。
宗教して、それで苦しんだなんて、なんだか
滑稽で、恥ずかしいこと、という思いが、私の中にあります。
ホントだね
人の心を救うはずのものが苦しむことになってるなんてね
わたしも同じだった
わたしも長い間、宗教を信仰してたから
サッチーさんが宗教をやめると決心してから
行動に移すまでの葛藤が
かつての自分のことのよう
”今月の「一問一答」に私出ています。宗教をやめるにあたって①”
自分を生きてこそにも書いてるけど
自分を生きてこその
神さまであり、先祖だということに
どうしても気付けなかった。
そうそう、自分が本尊であればいいと
気づいたのはわたしもずいぶん、後からだったわぁ~( ̄▽ ̄)
わたしのご紹介もありがとねーーー≧(´▽`)≦
これ宗教をやめる話なのだけど
仕事、他への依存にも当てはまると思う
わたしたちは、傍からみたらいい大人なのに
いくつになっても子どもの部分を持ってる
自分の意識は
子どもの頃とさほど変わっていないのではなかろうか?
実際にわたしも、人からみたら50歳をとうに過ぎた、
傍から見たらいいおばさん
が、本人にすると、子供の頃とあまり変わってなくて
「先生」「いい大人なんだから」とか言われて
内面とのギャップに戸惑ってるのだ
若い頃は
「このくらいの歳になれば、
さぞかし分別のある大人になってるはず」と思いきや
実際はたいして成長していない
わたしたちは50、60歳になっても、
7歳の頃と変わらない幼い自分がいる
おじいさん、おばあさんになっても
誰かに許容して欲しい、甘えたい、子供の頃の自分が
存在してるのだ
が、さすがにいい大人になって
子どものようにふるまうことはできない
大人になってからの
親代わりが会社、企業、組織だったり、
宗教の教えだったり
はたまた、自分の親と似たような配偶者
(結婚した当初は似てないのに、段々、似てくる場合アリ( ̄▽ ̄))
どこまでも、誰かに束縛して欲しい
誰かに戒めて欲しい
誰かに従がっていたい
喝を入れて欲しい
誰かに許可を求めたい
ときに甘えさせて欲しい
誰かの庇護の元に身を置きたい
守って欲しい
そして、無責任な自分でいたい
自分で決めたことには
自分に責任が生まれる
どこか息苦しさを感じながら
教えでは「こう言ってた」
会社の規則では「こう決まっているから」と
自分ではないところに委ねられる
文句を言いながらも責任をとらなくてもいい
気楽さもある
親そのもの、あるいは
親代わりのもとにいる息苦しさを感じながら
無責任な子どものままでいたいのか
庇護はなくなるけど(実際は別な庇護があるけどね)
やりたいことをやる自由を得たいのかの選択に
なっていくんだろうな
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