仕事をするのも、
本を読んで知識をつけることも、
効率よく冷蔵庫の食材を使い切ることも、
就活することも、
暇つぶしできなくて悩むことも、
もしかしたら、このブログを書くことさえも
俺の行動のそのほとんどが、将来のためにやっていることのような気がする
今のために生きてることってホントにわずか
今この瞬間を味わってることってほとんどない
言い換えれば、「将来のため」と思ってやることはみんなその原動力が恐怖なのではないだろうか
つまり、「将来痛い目をみたくないから」という恐怖心が火種となっている行動がほとんど
「恐怖」という感情に支配され、身体をコントロールされていたのではないか
いつの間にかそれが当たり前になっていたが故になんの疑問も持たずにその火種から行動していたけど、それってホント何なんだろう
そして、「将来のため」と思って何かをやっている時ってほとんど集中してない
身体も思考も動いているけれど、全然別のこと考えてたり、変な妄想してたりする
将来のことは、将来の俺に任せとけばいいのに
今の俺がやることを今やればいいのに
踊る大捜査線で室井さんが「今日のことはお前に任せた、明日のことは俺に任せろ」と言っていたけど、あれは将来の俺から今の俺へのセリフのような気さえする
将来のために生きてるのか?
嵐の曲の歌詞のように、「明日のために今日がある」のか?
こんなことを考えてると虚しくなるしやる気が萎えてくる
ありあらゆることが「面倒くさい」と思えてくる
最近お気に入りの思い込みパラダイムからの解放で言うならば、
「将来のために今を犠牲にしなければイケナイ」というパラダイムで生きているということではないだろうか
何かを計画したり、何かのために準備したりすることが悪いわけではないけれど、その計画や準備そのものがツマラナイにも関わらず、未来への恐怖心からやっているとしたら、それって何なのだろう
来るべき未来を考るとワクワクするから、計画や準備をしているのだろうか?
山登り思考になっていないか?
「願望」と「実現が」統合された、「最初の一歩がそのままゴール」である、「キーネシス」ではなく「エネルゲイア」としての自己実現とはほど遠いものになっているのではないか
完全に横軸パラダイムで生きていた
別にそれが悪いわけではないけれど、自分の行動が「将来のため」であることが嫌になってきた
「将来のために」いまがんばることが馬鹿らしくなってきた