「自分」は「不易」? | uminami-snusのブログ

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ある日自分の中でスッと納得できたことを鮮度のある内に残したい。個人的な備忘録であり、アタマの中を整理するためのもの。

易の三義の不易と変易のはなし

不易は変わらないこと
変易は変わること

目の前の事象は常に刻々と変化するけれど、その大もとの本質は変わらないですよということ

マッキーはその「変わらないこと」とは「自分」だと言っていた

ここでこんな反論が出る
「いやいや、自分だって変化するでしょ」

考え方も変わるし
好き嫌いの好みも変わる
価値観も徐々に変わることもあるし
アタマで覚えている記憶だって変化してる
感情だって一日の中でもどれだけ入れ替わることか

体だって年を重ねるごとにどんどん変化する
科学的にはヒトの細胞は数週間から数カ月で全て入れ替わると言われている

そういう意味では「自分」だって「変わること」すなわち「変易」なのではないか

そう言われるとそんな気もする

でも、ちょっと待って

逆に考えれば、いま変わることとして例に挙げた事柄はすべて「自分」ではないということではないだろうか

つまり、価値観も、感情も、ものの考え方も、記憶も、この体も、本質的には「自分」ではない

これらはすべて「変わること」であり目に見える事象のひとつに過ぎない

つまり、そのような普段「自分」だと認識しているあらゆる事柄のもっと奥に「変わらない」本質的な「自分」が存在しているということ

その「不易」としての「自分」とは?

その自分とは「見るもの」
思考、感情、価値観、五感、記憶、肉体を含めて、目の前で起こる変化を「見るもの」
永遠不変の存在として、刻々と変わりゆく森羅万象の世界を「見ている」存在

マッキーの振り子の図で言うのであれば、左右に揺れ動く振り子をもつカエルが不易としての「見ている存在」であり、自分の本質

普段は振り子が自分だと思い込んでいるけれど、実は、本当の自分は振り子の原点だったりする

振り子をもつカエルこそが「不易」という永遠不変の絶対的な本質であり、そのことを思い出すことが「自分に還る」ということ

その自分に気付けたなら人生は「簡易」になる