今回の読み解きで重要だったのは、

白川静さんという巨匠が、兮・乎の形を、

それぞれ2枚、3枚の遊舌部を持つ鳴子板

とリーディングしている点です。

おかげでかえって理解ができました。

 

鳴子(楽器)は子どものころから家に

あってわりと愛着があったし、巨匠の

リーディングは尊重したいです。

殷・周時代の青銅器を多数所蔵しておられ

白川静氏wikipedia 


呪術面の可能性を感覚的に読みこんで

甲骨文字を解明されていらっしゃったとあり

 

紀元前の殷時代の青銅器や文献に、鳴子板だと思えるモノがあったのかもしれません。

 

唐の時代の画の一部を記載します。

これは、拍板と思える。


で、こちらが平等院の仏様が持っている

拍板とされているものの記載サイトです。

https://blog.rnb.co.jp/commentary/?p=14126

数年前の平等院展の記事 最後部の画像、

雲中供養菩薩像 南1号(左)

とあるのが、ビンサザラをもつ菩薩さま

記事によると

「1053年に仏師・定朝の工房で彫られた

高さ70センチほどの木像」だそうで11世紀ですね。

菩薩さまが持っているのは

👇このびんざさらの小さいのでしょうか。

ウィキメディアコモンズより

ささらを実際の日本の神事で使っている動画

浅草です。8分過ぎくらいからシャリンッカチって鳴らしてます。

  

芸大の方のご説明、打つ音がちゃんとしてますね



こちらが中国の方の唐時代の古い楽譜演奏

拍板を打っています

まるで日本の皇室の音みたいです

顧閎中(10Ⅽの南唐の画家)韩熙载夜宴图の一部 拍板をもつ男性中央
片側を打ち付ける感じでしょうか
 

北京のマーケットのおじさんいい音♫

この音なら踊れそう 後半の高音はシャラシャラしてるね 後半のやつは柄がありました!


甲骨時代の話なので3000年以上前、どうしていたか。



そこで、白川氏の説、鳴子板だったと仮定した場合


2枚だけ、と3枚挟んで打つ拍板が現在の中国にもあり上述動画のようでしたが、柄がどれもなかったですね。

日本の動画で使用してるささらと枚数、巾がだいぶ違いますね。

それに白川氏説の場合この甲骨文字から鳴子板を連想したと考えられます。


👆日本のお祭りの楽器に確かに似てますね




チャネラーとしては、

鳴らす道具はあとで、神事が先だったろう、

と主張させていただきます。

 

神事を行うためには、

その必要性に人間が突き動かされなければ

行わないでしょう。

その動機にいたる情動が先だと思います。

太陽信仰が先にあったということです。

そして、古代中国では鳥と太陽信仰が合一して

考えられていた

 クロームで開く古代中国の太陽信仰と鳥信仰テキストPDF 古代中国の太陽と鳥信仰


乎や兮の象形文字の造形は本来はアンクだったでしょう。教わった存在からエネルギー循環を認識できなかった人物が描いたものであり、

 



プラーナが体を巡ってカーとなるさまの光を受け入れる姿を描いたプサイΨの両方が大本にあるのだろう、と私は主張します。

 



カーのエネルギー循環は、トーラス状に

行うのが正しいのですが、不可視のエネルギー

を循環させる概念を理解できない場合、

どのように回すのかがわからないわけです。

ですから、教えた(伝えた)側が

「その行為をやることが太陽神と

つながるうえでもっとも重要なことだ」

と伝え「それがどうしてかはわからない

んだけど、その形で祈るのが正解なんだよ」

と言われれば

「そうか、その体の形が重要なんだね。」

と思うしかないわけです。

 

そのころ、すでに見えなかったのかな。

 

老子の記事を書いて思ったのは、

「有識層は、チャクラやエネルギー循環のことをわかっていて、自分たちの書庫に収めて一族

グループで保管しているのでは?」

ということです。

ネットに載せて解説しないんでしょう。

 

彼らは重要な事柄であるほど明るみにして

万人に共有するより、自分たちで保持して

秘密裡に理解継続することを望むはずだ、

と思いました。

外敵から攻められて命からがら生き残った

方々ですから、そう思っても仕方がないです。

世代間の交流が断たれれば伝わらないまま終わりますね。どちらにしてもネットに載せないだろう、と思う。というより、中国の方にとってネットに書く必要がないくらいチャクラのエネルギー循環が健康の常識なのだったら、逆に面白い。そこらへんもまったくワカラナイ。

 


乎も兮も、感情や呼吸に関係しています。

 

今回「 死者の書 」という題名で訳されて日本人に覚えられてしまったパピルス、

 

たびたび参考にさせていただいているサイト「無限空間」のあるじ様の言葉を借りて

「ラー(太陽)のように出現するための書」、

というタイトルを選びたいと思います。

その書物が初めて日本で翻訳されたものを、国会図書館のPDFでだれもが読むことができ「大正9年発行 世界聖典大全 埃及(エジプト)」といいます。

 

アニのパピルスからすれば、「アンクの台座」に見えてしまっている「 テト 」の部分を

どのような文章なのか気になって、下の150あたりを読んでみました。

 

バッジ氏が「古代エジプトの魔術」で指摘した箇所に該当するものは見つけられなかった、そのかわり151章九の一文に目がとまりました。

 

反語形で、「乎」を使っていて涙が出そうに

なった。トートが泣いて喜んだことでしょう。それこそが「カー」なのだ、と。言霊の国のものたちはやはり言霊を理解しているのだ!とね。神が作った形・文字なら契約がありますので上とちゃん繋がれる正当な巫女・神官がいれば、光が宿りやすいです。

 

また話がズレそうなので、呼吸と息に戻ります。

 

乎は、 本来は息を意味し、疑問、感嘆詞、

前置詞、形容詞と副詞の接尾語として意味を強める、

じゃあ、老子の和光同塵はどうでしょう?

  


乎を

接尾語として捉えれば「その深い様子は」、

感嘆詞として捉えれば

「なんと深淵なることか!」となる。

前置詞なら「その深淵さは」となる。

あえて

文法的な意味と同時に「深い息」という

名詞としても表現した、と解釈します。

 

なぜってカー経路ワークで重要なのが、

呼吸だからです。

中国語のサイトにおいて

兮は

“「口から出る音を表します。一説には、

「丂」は「呼吸」の「吐く」「吸う」の原字」“

とあり、

 

丂は吐くと吸うの元の字ということ。

乎は兮の異体字なので、意味は同じと解釈

してよいですよね。

 

では、末広がり、日本で言えば漢数字の

「八」がかぶさっている理由ですが、

 

カーをめぐらすトーラス状の循環の中央の

最上部の形状です。それが形で表されたの

が八です。ヲシテ文字で清浄を表す風の元素

「カセ」の形にそっくりです。

 

フトマニカード説明書より

中国サイトの説明で、

伏羲は氣で姓は風であり、

プラーナは氣・風を指す。


神事のときに鳴子のような楽器を鳴らそうとならすまいと重要なのは、神とつながる部分。

体を準備して意識的に取りこんでいるプラーナがカーであり、それを循環することで体内の低波動が浄化され、高波動を無限にめぐらせて心身を充たすのです。それをしている身体を表しているのがプサイψの形です。音、形、残された意味、活用のされ方、

 

すべてがつながりました。