ある漢字を調べる中で、

老子の

道徳経 四章 和光同塵に出会いました。



チベットやインドのいわゆる

プラーナ、ルンは中国では「氣」と

表し、「あるいは風のこと」とありました。


伏羲の姓は、百度百科には

「伝説によると風である」

とあり、 「羲は氣である」

とも記載されています。


古代中国人は伏羲に相当する創造神が

プラーナ=氣あるいは風である、と

認識していた

だろうことがここからわかります。


メタトロンが、伏羲の別名存在

東華帝君というキャラクターで

関わりをもったのが、私の

スピリチュアルの旅の始まりです。


常日頃から主張している

「大天使メタトロンは

この宇宙に遍満するプラーナである」

という部分がここでも重なりました。


伏羲の羲という漢字を構成する、

兮いう文字が乎と関連している、

と中国と日本の両方にあり、

たまたま

老子の下記の文をひいたのです。


道冲、而用之或不盈。

淵乎似萬物之宗。

挫其鋭、解其紛、和其光、

同其塵。

湛兮似或存。

吾不知誰之子。

象帝之先。

以下英文

“The way” is like an empty vessel.

 But you can never fill it up.

 Its depth is the depth of the Creator.

 It dulls edges, disentangles threads,

 softens the light and assimilates into dust.

 It calmly exists like water.

I do not know who/what created it.

 But it might be an ancestor of the emperor of heaven.


英訳された方はある程度

理解されてたみたいですね

でないとここまで書けないんじゃないのかな。


以下、英訳のgoogle日本語訳 赤字は修正部分


「道」とは空の器のようなものです。

 しかし、それを埋めることは決してできません。

 の深さは創造主の深さです。

 エッジを鈍くし、糸のもつれをほぐし、

 光を和らげ、塵と同化します。

 溢れる兮は 水のように静かに存在しています。

誰が、何が作ったのかは分かりません。

 でも天帝の祖先かもしれない。


 

を読んで、

 

老子、

あるいはその同時代の

ある状態に達した賢人たちは、素粒子(プラーナ)が見えてたんじゃないのかな?

少なくとも存在を

認識していたのでは?って思いました。

 

道が、

たぶんカー経路だと思います。

塵は、素粒子でしょうね。


塵と同化は、


プラーナを循環させて体内の低波動を浄化させていくことです。循環させると外から取り入れたプラーナが自分のエネルギー粒子になる、ので低波動から開放されて体調がよくなるのです。クンダリーニや高波動を浴びて浄化する瞑想を理解して実践しているヒーラーにはふつうのことです。


概念を理解しない人が訳しそれを

数千万人が読んで誤解が常識になって、

いまにいたる・・・言葉とはそういうもの

なので別にいいでしょうか・・


と思ったら、アメリカで二十世紀の前半に

プラーナを理解している人がいました。


毎朝、メタトロンの素粒子に囲まれて

目が覚めますが、どういう状態かといえば、

霧吹きで吹いたときの

「 霧 」のもっと微細なもの

の中でキラキラ光る満天の星を見ている、

みたいな感じです。


もやもやしていると以前書きましたが、別の言い方をするなら美しい塵や埃。

非常に細かい粉状の物体が立ち込めて舞っている世界です。色は淡く薄紫pinkがかった白。

  


それが朝の常になってしまったので、

気にも留めなくなりました。

 

スピリチュアルの始まりから、

自分と同じように見える人を

探しているのですが、

同期生の中にはいませんでした。

リーディングしてもらうと私の体の前に

「微かに見える」と言った人が先輩に一人。


ちなみに私は個人のオーラは見えないですが、リーディングでイメージを感じるか

相手のハイヤーセルフに聞くことはできます。

オーラを重視している方はプラーナは

見えないかしれないですね。


見ているものをメタトロンに限定されているので好きなものを見ることはできないです。幽霊も見えません。見えなくても困らない。


自死霊が憑いている人を遠隔リーディングしたとき始めた途端に除霊されるのを怖がって、怒ってズンズン近づいてくるのは見えたので、結界を張り直したらポーンと遠くにいってしまいました。そのあと光に返しましたが。


プラーナを眺めながら、クンダリーニ

をあげるとき、視界に広がる色とは違う色で

チャクラのヒーリング瞑想から入ります。

自身がうす淡いピンク色に全身覆われていても

脳内イメージで赤・橙・黃・緑・青・紺・紫、とヒーリングしていくのです。


イメージと粒子をわけて見ることができ、分別して理解している人にも いまのところ出会えていません。

 

見ているプラーナに

近いのがダニエルBホールマンさんの

絵です。





ジーザスの姿を描きながら、竜のようなサンショウウオのようなモコモコした粒子体でみてきたものや、上部のキョロちゃんみたいのはセベクさんが👇


中央の細長いのがカードに初期現われていた部分


いちばん初めにカードに現れた姿ですし。画家さんがいくつもの段階で

粒子の世界を見ていることがわかります。

 

ミカエルに聞いたらそれがくまなく見える人は「地球上で1万人くらい」いればいい方だそうです。その上で高位高次存在とちゃんと話せてる人は、何人いるのかな・・・。

 

しかし、日本の和邇氏もそうですし、

天皇家の始まりも、

出産シーンをのぞいたら、

蛇か鰐のような姿だった・・・ということなので、見えていた人がいたわけです。


地球の気流でまとまって移動すると、粒子は

筒状の流体=龍・蛇のような長細い姿になるので、それが龍に見えたということだろうと思います。

 

そして思考は粒子のエネルギーとして

存在するので、架空の生き物として、

「イメージする」「描く」

「物体として造形する」

という行為を行うと、

すべてそれが粒子として存在する

ようになります。

ひとつのまとまった信仰が起これば

竜に関する寺社仏閣などで、その姿を見ることも起こってくるわけです。

人間が思い描いた思考の粒子の集合体をその場の波動に同調した神が宿って利用する=人間に姿を見せることもあります。


それを

たまたま見えた人が「あれは神だ!」

と言って騒ぎになるのです。

 

話がずれました。

 

人類はいつからプラーナを

みえなくなったのか?

という疑問がのこりますね。

きっと古代は、見えていた人が

たくさんいたんだろうな。

 


老子は、見えていた、と思います。 

あるいは、概念を理解していただろうと。


「道」は、

背骨にそってあるカー経路のことであり、

そこは目に見えないので

なにもないように思いますが、

プラーナを通して=カーが通れば、

愛の豊穣が滾々と湧き出るのです。



たぶん支配側が民が目覚めると従属してくれなくなるので、思想を書き換えたり、潰したり、したんでしょうね。

 

和光同塵の「塵」は

素粒子=氣=プラーナです。