月白 ‡tsukishiro‡

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こちらは日々のうだうだを綴る痰壺ブログでございます。

2015年〜シェーグレン症候群、全身性エリテマトーデス。

2017年〜味覚障害、嗅覚障害。

先日、地区の敬老会がありました


何日も前から該当者(80歳以上)に参加するか否かを聞き取りしたり、

記念品や余興の発注をしたりとそれはもう忙しく……




前日は会場の設営で汗をかき…


そして当日


私は受付で参加者のチェックをしておりました



名簿に名前のある人はひと通り来場し、

人数と記念品の数をチェックしていると、

おじいさんが来まして




『◯◯町の◯◯だ! 席まで案内しろ!』




大きな声でこうおっしゃった




慌てて名簿を確認すると、

“当初は参加するつもりだったが用事が出来たので不参加になった”人だった



『欠席する、と伺っていますけれど?』と私が云うと、

『そんなはずはない! 』と怒る怒る



一旦は不参加になったけど用事が途中で済んだから来たんだ、と



うわあ……すごい道理だなぁ、おい



騒ぎを聞きつけて隣の町内の三役のおじいちゃんが飛んできました


『あんた、今日は欠席だって聞いてるよ』



うんうん、そうだね

名簿にもそう書いてあるね(頷く私)



すると、

『とにかく席に案内しろ! 参加だ!』


三役のおじいちゃんは、

『云いたかないがあんた、勝手だなぁ…いつもいつもみんな迷惑してんだよ…悪いけどあんたの席は無いんだよ…お引き取りを』




ズバッッッ!  袈裟斬りッッ!



自分勝手なおじいさんは真っ赤な顔で悪態つきながら帰っていきました




名簿に記載された年齢は88歳


88歳であれだけ大きな声が出るのも驚きだけど、

88歳にもなって敬われる年寄りになれてないのが吃驚だったわ


おい! 案内しろ! ですからね…


何食って生きてきたらあんな偉そうな物云いをする年寄りが出来上がるのよ




嗚呼、やだやだ





会は滞りなく進みジジババ達は私達に、

『楽しかったわ、ありがとね』

『準備も大変だったでしょう? 』と




ねえ! 

さっきのジジイに聞かせてやりたかったわよ



百花百香

100人居たら人それぞれだけどさ



私は周りに迷惑をかけず、

ありがとうが云える、

可愛げのあるじいちゃんになろうと改めて思いました




とりあえずお疲れ様、私


よう頑張った

















『ほら、私って◯◯じゃないですか〜』みたいな云い方をされるとめちゃくちゃ違和感を覚えて、云ったご本人を確実に警戒する様になるんです


だから自分でも『◯◯じゃないですか〜』という云い方は絶対にしない訳です

でもこういう云い方する人は多いよねって印象


便利な云い回しなのかも知れません





昨日ね、地区の当番で早朝から作業していまして


普段挨拶くらいしか交わさないおじいさんと同じグループだったんですね


頑固で取っ付きにくいイメージしか持っていなかったんだけど、
おじいさんがいきなりこう云ったんですね



『あんたんちの花壇、すごく感じがイイなぁ…手入れも行き届いてるし』




おじいさんちも前庭がメドウガーデンっぽくなっていて、一年中花が咲いているのを知っていたので、

『◯◯さんちの庭も素敵ですよね』
って誉めたんですね、心からそう思っていたので



そうしたらおじいさん、好きな花や果樹の話をワーッとし始めてwww

ただの花好きなおじいさんだった


果樹はやってないのかと訊かれたのでパッションフルーツだけやってると云うと、

『アボカドとかジャボチカバやんなさい、面白いから…うちの裏庭にあるからいつでも見においで』と


普通の家の庭でジャボチカバやってるって初めて聞いたわ…ハウスが無いと無理じゃないのかしら



色々話をして最後におじいさんが云いました


『あんた、◯◯じゃないですかって気持ち悪い云い方しないから気に入った』


wwwwwww



ざっと思い返すに、
『アボカドって難しいっていいますよね』
(not アボカドって難しいっていうじゃないですか〜)

『土の配合がキモなんでしょうか』
(not 土の配合がキモっていうじゃないですか〜)


とことん“じゃないですか構文”を使わずに言い換えていたワタクシの妙なこだわり

おじいさんにわかっていただけた様で何より


言葉遣いも綺麗だと誉めていただいてw


じゃないですか構文を嫌う人って一定数いるのかなぁ

まあ、気持ちはわかります



以前の職場で、
『ほら、私ってお肉大好きじゃないですか〜』って云われて、
『貴女が何を好きかなんて全く興味が無いし、それ以前にそう云う表現は好きじゃない』と

バッサリやったら泣かれて面倒臭いことになったのでもう云いませんがw








ひとつ前の記事で、静岡の叔母M宅へ行った話をした


昨年暮れに亡くなった叔父の初盆だったので



お昼ご飯を食べながら色々話をしたんだけど


叔父の一周忌を12月ではなく11月にしようと思ってるんだよね、という話になって



叔母M『その一周忌にさ、海彦のお母さんが“来たい”って云ってるんだよ』


私、は?って声が出てしまった




詳しいことは昨年末の記事を読んでいただくとよくわかると思うんだけど


叔父が亡くなる3ヶ月前に、私の母親と実家で同居している叔母S子(母親の末妹)が九州から叔父に会いに来てる


叔父は相当具合が悪かったんだけど姉ふたりが来たので床から起き上がり、車椅子に乗りながらも元気なふりをしていたらしい



そして3ヶ月後、叔母Mから電話があって『ちょっと危ないかも知れない』と


私は慌てて会いに行った


そしたら、もう口から栄養が取れなくなっていて意識も朦朧としている叔父がいた



下顎呼吸こそしてはいなかったが、これはあんまり時間がないなと思ったんだよねぇ



取り敢えず日帰りで戻り、母親と叔母S子に速達で状況の報告をした


私の手紙が着いた翌日に母親が膀胱癌の手術を受けて、手術の翌々日、叔父の訃報が叔母S子に届いたという訳


叔父が亡くなった翌日に母親は退院したんだけど、叔母S子は末弟が亡くなったとは云えなかったらしい


術後だしショックを受けるからと


叔母S子は何度も私に電話をかけてきて『あんたのお母さんも退院したばかりだし私もお母さんの側にいないといけないし、静岡には行けそうにないし、まだ話せてないし、どうしたらいいの』と泣いていた



取り敢えず母親に叔父が亡くなったことを話してくれよと云い、通夜と葬式の段取りもあるので私は静岡に向かった…葬儀に出られる“叔父の唯一の近親者”だったからきちんと送り出さなくてはと思ったしね




手術•退院したばかりの母親と、母親をひとりにできないからと動けない叔母S子は、3ヶ月前には元気だった末弟が亡くなった事実を受け入れることが出来ないまま年を越した


(葬儀に出て焼き場で収骨するという行為は身内が亡くなったことを現実として受け入れる為に必要なんだなと改めて思うね)



2月の四十九日には叔母S子が九州からひとりで来た(これも確か過去記事にあります…よければ読んでくださいませ)





収骨の際に、九州のお墓にも入れてやりたいから分骨してくれと云われていたのよね


んで、四十九日が終わって叔母S子はお骨と写真を持って帰った訳ですな


ここ重要…“母親と叔母S子の強い申し出により分骨した”という部分


叔母Mは義姉さん達の気持ちを汲んで了承したんだと思う


私は爺ちゃん婆ちゃんの墓に入れてやりたいという考えがイマイチよくわからなかったんだけど



さて、一周忌に母親が叔母M宅に来たい、一周忌に参加したいと云っているという点に於いて…



私は『何故? 』と


何の為に分骨したのかと



昨年9月に静岡へ行った時も叔母S子が母親に同行した


その後の入院手術も叔母S子がなにくれと母親の世話をしていた


母親の週一の抗癌剤治療の際も、車で送り迎えしている


ぶっちゃけた話、叔母S子は相当疲れているんだよな


母親に(精神面でも)依存されて


母親は自己愛性人格障害…

使い勝手のイイ人間にはとことん依存して自分にイイように使う人間



あの人の性格を考えるに、

『お寺さんに挨拶してお世話になっているお礼を云いたい』と主張しているのでは?


叔母Mがそれを聞いて『すごいね海彦、何でわかったの? 義姉さんが電話で云ってたこと、そっくりそのまんまだよ』と


嗚呼、嫌なビンゴゲームだわ


叔母M曰く、

『義姉さんがひとりで来られる訳ないじゃん…S子義姉さんが付き添ってないと無理じゃん…そしたらS子義姉さんが倒れちゃうよ』



確かに…四十九日で静岡に来ていた叔母S子はのびのび過ごしてた様に見えた

いつもいつも自己愛の人間と一緒にいたら精神が参ってしまうよね




それに私が何より許し難いのは“長姉の私がお寺さんに挨拶しなくちゃ誰が挨拶するんだ”という考えが透けて見えるところ


あの人、そういう考え方する人だから


それって叔母Mを軽んじている(昔からそうだったが)


叔母Mが立派に夫を送り出したのを見てないからそんな考え方が出来るんだろう


叔父と叔母の家のことに口出しする気満々ってことだよな


家のことは叔母Mが完璧にやってるのに



叔母Mは『義姉さんがそう思うのは私が頼りないからだろう』と云ったけど、そうじゃない



元々そういう人なだけ



周りにどれだけ迷惑かければ気が済むのか



『一周忌来静は阻止する…分骨を求めた上にまた勝手なことされたらかなわない』

そう云う私を複雑そうな顔で叔母Mは見ていたが私は腹が立って仕方なかった



一周忌法要まであと3ヶ月……嗚呼………










8月14日

行ってきました、御前崎


これまで通り、新幹線で静岡駅まで


静岡駅から特急静岡相良線のバスで南下


途中、自主運行バスに乗り換えて到着



相変わらず遠いw



ねえちゃん(叔母)とは半年振り

元気そうでよかった




昨年暮れの葬儀告別式

半年前の四十九日

そして初盆


よその宗派のやり方を興味深く見ていたけど、

仏さんのお迎えのしつらえも初めて見るタイプで



ひとつひとつ意味があるんだろうけど、

ねえちゃんに訊いても『何だろね?』だったので深く考えないことにしたw



静岡駅は大変な人出だったけど、

御前崎まで来ると人もあんまり歩いてない


静かでイイお盆


相良行きのバスは結構混んでたけど




真夏の風景が日南と似ていて、

あんちゃんがここを終の住処と決めた理由が少しわかった気がした



そして安定の日帰り


こっこ買うの忘れた…私の馬鹿ッ




一周忌は繰り上げて11月になるらしい


……って、あと3ヶ月やん、早ッ






TOTOというバンドを知ったのは16歳の頃


クラスメイトで仲の良かったMちゃんがどハマりしていたのがそのバンドだった


1stアルバムから順に聴かせてもらい、

テープに録音してもらった4枚のアルバムを毎日の様に聴いていた


1stアルバムを聴いた時に

『どこかで聴いたな、この太鼓』と思ったのだけど、それが何か最初はわからなかった


高校時代はAORにも手を、というか耳を差し出していたワタクシw


最初の出会いは小学生の頃…Bozだった


近所のお兄さんが聴いていた

“Silk Degrees”を聴かせてもらって

『何じゃコレは! カッコいい!』


11歳にしてどハマりw


しかもBoz本人という訳ではなくドラムの音がカッコいいという理由


お兄さんは『名も無きスタジオミュージシャンだよ』と云っていたけれど



話は高校時代に戻り…


洋楽を満遍なく聴きまくって、たまに戻って来るのがTOTO


ある日、“Turn Back”を聴いている時に『あれ?あれ?』というモヤモヤが…


このドラム、昔聴いたことがある…

どこで聴いたっけ?

何の曲やったっけ?




Mちゃんに『Jeffはよそのバンドでも叩いてたりした?』と尋ねると『元々スタジオミュージシャンやで、あちこちで叩いてるやん』


スタジオミュージシャンという言葉であの音を思い出した



Bozおじさんとこで叩いていたのは彼?



AORに詳しい友人にクレジットの確認をしてもらうとやはり彼の名前があった



最初に聴いたあのカッコいいドラムはJeffだった



ああああああ、繋がったがな

もやもや解消 のち 納得



素晴らしいドラマーは沢山いるんだけれども、

ワタクシが一番好きなのはJeff Porcaro


11歳で聴いた音が、

16歳で聴いた音に繋がるとは思わなかった




あちこちでイイ仕事をしたJeffの音を今も聴くことが出来る幸せ



そんな訳で今日はBozおじさんとTOTOの曲を聴きまくっている


ドラム

ベース

ギター

ヴォーカル


それぞれの音を分解して聴く癖は正直何とかしたいと思っているんだけれどw







 

あんちゃんの四十九日法要に出る為、

静岡に行ってきた


前日(1/31)に入って一晩あんちゃんちに泊まって、

2/1の11:00から自宅での読経→お寺へ移動して納骨、という段取り



静岡駅のパルシェでマフィンを買って姉ちゃんへのお土産にした


私よりも2日早くあんちゃんちに来ている叔母(日南組)へのお土産はASTYで調達


お茶っ葉、茶蕎麦、

お茶羊羹、うなぎボーン


礼服と靴の入ったトロリーケースにショルダーバッグ、マフィンにお茶っ葉に色々(トロリーケースには横濱ハーバーも2箱入っている)


バスに乗る前なのに既にくたくたw



特急バスに自主運行バスを乗り継いで御前崎へ


相変わらず風強くて鼻がもげるかと思うほど寒かった



着いたら姉ちゃんと叔母が迎えてくれた


叔母とは5年半振り


痩せた私を見て吃驚していたけどw


仏壇とお骨のあんちゃんに手を合わせてからマフィンでおやつにした


美味しいと喜んでもらえたので良かった


叔母からは、

何でそんなに痩せたのか?

猫は元気か?

仕事は順調か?


質問攻め…


とりあえずいつも世話になっているので礼を云う


頭のオカシイうちの母親と同居してくれているので





何だかんだと色んな話をしてその日は終了



2/1…

朝一番のバスでやって来たのは静岡市内に住む従弟甥


『父の名代で来ました!』に笑った


彼の父親Tは私の4歳下の従弟


従弟と最後に会ったのは大叔父の葬儀の時、もう12年前だ(え? もうそんなに経ってるの? 早いなぁ…)


でもその時の印象が薄い

バタバタしていたし…


小学生の頃のイメージが勝ってるんだなぁ


従弟甥のYは父親Tと顔がそっくりで、

物の云い方も考え方も似ていた


遺伝子、仕事してるなぁオイ





11:00に坊さんが来てお経をあげてくれた

途中で唄う坊さん…よその宗派のお経は興味深いですなぁ…何故唄うのか?


その後はお寺に移動して、納骨


石屋さんが骨壷を納める際に、蓋を取って指を掛けていた


私は隣にいたYに

『おじさんのお骨、見とき』と促した


前日の冷たく強い風が信じられないくらい暖かくイイ天気で


天気に恵まれる納骨日、というのも変な話だけど


雨じゃなくて良かった



あんちゃんちに戻ったらすぐにお寿司屋さんが人数分の寿司桶とお造りを持って来てくれた


応対した私は『有難うございます』と云いながら、そういやお通夜の時も葬儀の時も周りの人達に『有難うございます』ばかり云ってたなぁと…




お通夜帰りに寄ったセブンイレブンの店員さんにも、

葬祭場のスタッフの人達にも、

霊柩車を見送ってくれた近所の人達にも、

焼き場のスタッフの人達にも、



何かもう全てに於いて『有難うございます』のひとことに尽きるのかも知れない


色んな人にお世話になるんだもんね







握り寿司のシャリで血糖値が爆上がり、

目を閉じたら眠ってしまいそうな状況を楽しみながらYと一緒のバスに乗って静岡駅まで


上手いこと来たひかりに乗って帰って来た



やっとやっとの四十九日


次は初盆(多分日帰りw)


体力つけておきましょう



















小さな頃から“あんちゃん”と呼んで慕っていた叔父が亡くなったので、

20日にお別れをして来た



19日の昼頃にあんちゃんの家に到着


前回見舞った時と同じ様に、

新幹線と特急バスを乗り継いで(着いた頃にはくたくた)



仏間に寝かされているあんちゃんを見た瞬間に『コレ、夢でした〜とかならイイのに』って思った



どこかで見た顔だなと思ったら、

あんちゃんの母ちゃん(私の祖母)にそっくりなんだと気付いた



姉ちゃん(叔父の奥さん)は、

さっきまで打ち合わせをしていたらしい


通夜から葬式までの予定が印刷されている紙



“点火”と身も蓋もない言葉があった



喪主になったら葬儀屋とあれこれ打ち合わせをして時間通りに色々やって大変…



夕方の納棺まで時間があったので日南の叔母に電話をして、

通夜の時間や翌日の出棺の時間など伝える



私の母親が膀胱にできた癌の摘出手術をした翌日に叔父が亡くなったので、

養生が必要な母親をひとり置いて叔父の葬儀に来られない叔母


電話口で号泣しながら『海彦、頼むね』と何度も云う



養生が必要とはいえ手術翌日には退院しているしひとりで歩けるというのだから叔母も叔父の葬儀に来ればイイのに……


9月に叔父の家に来た時はまだ何とか歩けていて食事も摂れていた弟が亡くなってしまったというのだからそれは相当ショックなんだろうけれど



だからこそ現実を見ないとこれ以降引きずるのではないかなと姉ちゃんと話した



夕方になって葬儀屋さんが来た


手甲脚半などを着けて旅支度してから納棺


手甲着ける時に触れたあんちゃんの身体がめちゃくちゃ冷たかった


親父の旅支度の時も同じこと思ったけどな



葬祭ホールでの通夜が終わって家に帰る途中でコンヴィニエンスストアに寄って晩ご飯を買った



食べながら姉ちゃんに、

『あんちゃんが亡くなったこと、ママ(叔母)は親類縁者に知らせてくれたんやろか?』と訊いたら

『そりゃ知らせてくれてるら』と



亡くなったという連絡を日南に入れたのが17日の昼前、

通夜は19日…もう2日も経ってるんだもんな


……ところがそんなことはなかったのである






眠れぬまま迎えた翌20日


8:00に葬祭ホールへ


出棺経が終わってから棺の中のあんちゃんの顔の周りに花を入れる


冷たいおでこに手を当てて『あんちゃん、またね』と云うだけで精一杯だった






火葬場での収骨は、姉ちゃんの在所のお墓に納骨する分とは別に小さな骨壷を用意してもらい、

あんちゃんの両親が入っている日南のお墓に納骨する分を入れた


四十九日に叔母が来て、この小さな骨壷を持ち帰る段取りになっている


葬祭ホールに戻ってから係の人に尋ねると弔電が2通しか届いていないと云う


日南の親戚からは?



不審に思い叔母に電話を入れて尋ねたら親戚にはまだ話していないらしい


何で?

〇〇伯母さんの遺産相続の件で裁判中でしょ?

(親戚の伯母さんが亡くなってその遺産相続の話が持ち上がったが、あんちゃん達のいとこだかが遺産を使い込んでいたことが発覚…伯母さんの遺言ではあんちゃん達に分配する様書かれていたので、うちの母親と叔母とあんちゃん←姉弟達 が裁判を起こしていたらしい…この話は通夜直前に知った)


裁判を起こしている側の人間がひとり亡くなっているんだから弁護士には連絡しなくちゃいけないし、その他の親戚にも連絡しなくちゃいけないでしょうが


何で連絡してないの?



結構キツく云ってしまった



叔母は『9月に会った時は元気だったのに急に死んだと云われても受け入れられない』と電話口で泣くばかり



嫌な予感はしていたけどまさかここまでとは



叔母が落ち着くのを待って、


◆葬儀に着ている血縁者は私ひとりだけだということ


◆日南に親類縁者がいるということは参列者には知られている


◆うちの母親とママ(電話口の叔母)連名でいいから先ずは弔電を打ってくれ


◆日南にいるあんちゃんの同級生に亡くなったことを知らせてくれたら多分その人から方々へ連絡が行く


◆ママ達のいとこの名前を何人か借りて弔電を打ってくれ


◆弔電を複数打ってくれたらとりあえず葬儀の形としてはそれなりにまとまるから、あんちゃんのことを大事な弟だと思うなら今すぐ弔電打ってくれ←これはキツく云った



参列者や係の人に聞かれない様にホールの外でこんな電話をしていた

冷たくて強い風に吹かれていたけど気にならないくらいには腹が立っていた



肉親の急な死を受け入れられない心情はよくわかる


わかるけどだからこそ葬儀に出て骨を拾わなくちゃいけない


出棺間際は私もぼろぼろ泣いたけど、

焼き上がった(?)あんちゃんの綺麗な頭蓋骨を見たら何かがすーっと下りて行ったのを感じたもん


生身の身体からお骨になったのをちゃんと見なければならないんだなと、

そしてそれが区切りになるんだなと思ったもんな






結局、叔母が打ってくれた弔電は5通


まあヨシとしましょう、と姉ちゃんと小声で話した


あんちゃんが亡くなったことを誰にも知らせていないと知って姉ちゃんも怒っていたので




葬儀告別式と初七日の法要が終わり、

その後は菩提寺に行って四十九日の日にちを決め、家に戻った



葬祭ホールから持ち帰ったお膳をつつきながら、姉ちゃんと“お疲れ様”会をして


バスと新幹線を乗り継いで自宅に戻った




疲れた疲れた


途中で怒ったもんだから余計に疲れた


あんちゃんからはどう見えていたのかはわからないけれども


とりあえずきちんと見送った




来年2月の四十九日がどうなるのか


それはちょっと不安ではある















12月17日 10時過ぎに叔父(私の母親の末弟)が目を瞑ったと連絡があった


電話をくれたのは叔母(叔父の奥さん)だったのだけど、私が『え!』と云ったきり言葉が出なくなってしまったので『海彦! 落ち着いて!』と云われてしまった



先週 12月8日に顔を見に行ったばかりだった



顔を見に行ったと云っても、その時の叔父はすうすう寝ていて点滴と酸素吸入をしている状態


ひと月近く経口で栄養を摂れていないのでガリガリに痩せてしまっていた



叔父は私の母親と一回り違いで、

私は小さな頃から『あんちゃん』と呼んでいた



(以下、叔父は『あんちゃん』その奥さんである叔母は『姉ちゃん』と呼ぶ)






あんちゃんの唯一の趣味は登山だった


高い所を怖がる私を『山登りを教えてやってくれ』とよくあんちゃんに押し付けていた私の母親



長姉にそう云われて断れないあんちゃんは私を連れて度々登山に出かけた


初めて北岳に登ったのもあんちゃんと



それでも私は登山の楽しさがわからなかったし、相変わらず高所恐怖症のままだった


情けないわと愚痴る母親にあんちゃんは、

『無理に連れて行っても駄目なんだよ。登山は向き不向きがあるんだし。海彦には他に得意なことがあるんだからそれでいいじゃないか。』とよく云っていた



親に認めてもらえない私をちゃんと認めてくれて可愛がってくれたのがあんちゃんだった



頭が良くて、勉強も出来て、誰にでも優しく出来る



私はそんなあんちゃんが大好きだった












先週、眠るあんちゃんの姿を見た時に、

もしかしたら生きているあんちゃんに会えるのはこれが最後になるのではないかと思っていた



そう思う反面、いやいやそんなんわからんでしょ



もう暫くはこういう状態が続くかも知れないし




でも、この状態が続くとしんどいのは姉ちゃんだし


実際、肺の術後に退院して自宅で介護が始まった時に姉ちゃんが電話をくれて、

『自宅での看取りを覚悟しておいてください』って病院から云われたと……



“自宅で介護”


文字にすると簡単なのに、

実際は簡単じゃない



それでも踏ん張って頑張っている姉ちゃんの話をうんうんと聞いて来た


あんちゃんの耳元で『あんちゃん、海彦だよ』と云うと少し瞼が動いた


来月また来るからね

その時には口からご飯が食べられる様になってるといいね



涙声になるのを堪えてそう云って来たのだけど




あんちゃんは昨日逝ってしまった




2010年に親父が亡くなり、

2013年に大叔父が亡くなり、

続けてあんちゃんの長兄の本家の伯父さんも亡くなり、


2024年はあんちゃんが




寂しい


寂しいなぁ






明日はお通夜

明後日は葬儀





膀胱癌の摘出手術直後のうちの母親は自宅療養中で、実家で一緒に住んでくれている叔母はそんな姉を放って静岡に行けるはずもなく



『海彦、頼むね』と叔母に云われてしまったので





悲しくて悲しくて仕方ないけれども、

背筋を伸ばしてきちんと見送って来る





















師走も折り返し…


今日は誕生日を迎えました


午前中だけのバイトに行って、

さて帰ろうかという段で入電


都内住みの友人から


『今◯◯にいるんだけど、海彦どこにいる?』



『⬜︎⬜︎にいる…もう少ししたら家に帰る』



『じゃ、海彦んちに行くわ』



帰宅してすぐに友人が来まして


『誕生日でしょ。ケーキ買って来たから食べて』と



私だけを太らせる気だなとw

せっかくだから一緒に食べようと




お昼ご飯が甘いケーキになりました


糖質のことは今日は考えず、

有難くいただきました



午前中は肉体労働だったからヨシ! ←









横浜が優勝した様です…

野球に興味持たないまま生きてきたのでよくわかっていません…昔は大洋ホエールズでしたっけ、確か


私は昭和の古い人なので、

球団名さえ更新されておりません


未だにパッと思いつく球団名は近鉄バファローズとか阪急ブレーブスとか南海ホークスとか




そう、それでね、昨日…

仕事中に派遣会社の人からメールが来て


『急で悪いんですが、明日〇〇に9:00〜15:00で入れますか? 急な欠員が出たそうで』



金曜日はゆっくりしようかなと思っていたんだけど、そのテナントさんには何度か入ったことがあったし困っていらっしゃるなら、とokayしたんですね



でも、うっかりしていた


よくよく考えたら“あれ? 横浜の優勝セールじゃないの?”とw



大型店舗のそういう類のセール中ってめちゃくちゃ忙しいんですよね


上から下まで、文字通り全館お祭り状態



私は大学生の頃に近鉄百貨店でアルバイトをしていまして



正しく云うと、百貨店の中に入っている某お菓子屋にアルバイトとして雇われていた訳ですね


当時そのお菓子屋はあちこちに店舗を持っていて、近隣の百貨店にはほとんど入っていたんですねぇ


ある時、近鉄が準優勝しまして


って云うと優勝セールしないんじゃないのって思うでしょ


優勝してないんだもん


でもセールは打つのよ


『ご声援ありがとうセール』ってやつwww


紙で出来た帽子を被って、

球団応援歌が大音量でバンバン流れる中、

次から次へとやって来るお客人を迎え撃つ(?)んですね


私がいたのは所謂デパ地下


地下鉄やJRの連絡通路からもお客人がわんさか入って来る


人混み嫌いなのにデパ地下勤務てwww


朝から晩まで店長とパートのおばちゃんと私の3人で店を回すの


くたくたwww

でも売り上げはすごかった



そして何度か他の店舗の応援にも行きました


ある時は西武百貨店の優勝だったかご声援ありがとうセールだったかに行きまして


朝から晩まで松崎しげるが全力で唄う球団応援歌を全身に浴びながら『頭おかしなるわッ』って思いながら働いたのでした


松崎しげるヤバイねん…

もう何十年も前の出来事なのに未だに頭の中でエンドレス再生されるもんね…




今日は何だかそんな大昔の百貨店勤務の頃を色々思い出しながらお菓子ぎょうさん売って来ましたわ





そういや近鉄時代の話…


勤務後に出納室へ売上を持って行く際に、ガラス張りの向こうで積み上げられた万札の山を見た時は驚いたなぁ


確か当日の全館売り上げが◯億円って日だったと思うんだけど、

百貨店ってこんなに売り上げあるんかいなって度肝抜かれました


朝礼時に『今日の全館売り上げ目標は◯億円です』って話があって、終業時にその光景を見ましたもんね



今でも忘れられん景色です