嘉永5年9月22日(1852年11月3日)は、
明治天皇が御生誕あそばされた日でございます。


孝明天皇の第二皇子として、ご生誕あそばされました
祐宮様(睦仁親王)は、万延元年(1860年)9月28日に親王宣下をお受けになり、
皇太子となられます。

嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、国内情勢が確実に変化し、幕末の騒乱をも
予感させる出来事が起こる中で、ご幼少期をお過ごしになられました。

その様に物騒な世の中は、
睦仁親王にとっても無縁ではなく、元治元年(1864年)7月、長州藩兵が御所を
攻撃して敗退する「禁門の変」が起き、翌日には、宮中内の何者かが手引きをし、
宮中に不審者が三百人以上侵入するという大騒ぎがありました。
さぞ驚かれたことと存じます。

慶応2年12月25日(新暦1月30日)に
孝明天皇が崩御なされると、14歳で皇位にお就かれになり、
その年の11月には、徳川幕府が大政奉還の上奏を行い、
明治天皇はこれを勅許あそばされます。
これにより、形式的には朝廷が政権を握る事になります。

新政府が王政復古の大号令を発た後、明治元年3月14日(1868年4月6日)には
「五箇条の御誓文」を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月
11日)には「政体書」によって新しい政治制度を採用致します。
また、元号を「明治」と改元し、一世一元の制を定められました。

旧幕府軍に勝利をして世が平定されると、明治4年7月14日(1871年8月29日)
には廃藩置県を断行し、欧米列強に対抗する為、中央集権体制を確立致しました。

この廃藩置県に伴い新政府に出仕し、静岡県権大参事,茨城県参事,
伊万里県権令を歴任したのが、
「山岡鉄舟先生」であり、翌年には侍従として、
明治天皇に仕える事となります。
明治天皇と山岡鉄舟先生の間には、数々の出来事がございました。
(この辺りは7月21日「誠の侍たち・其ノ拾壱」に記しましたので省略致します)

その後も近代国家を確立する為に「官僚制」や「議会の創設」に力を注がれ、
欧米から日本国を守る為に軍備の増強に努められ、明治22年2月11日、
大日本帝国憲法を公布あそばされます。

こうして、立憲君主制国家を確立されたのであります。

近代国家日本の指導者、君主として国民から畏敬されていた、
明治天皇でございますが、日常生活は質素を旨とし、

どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけなど、

常に自己を律すること峻厳にしておられたと伝わっております。
また、畏くも「朕これ常に臣民とあり」の信念を持ち、戦時には、
大本営の暖房もないような殺風景な部屋で直接戦争指導に当たられました。


我らの祖国の近代化は、
明治天皇が有らせられたから成し得た事であり、
その御功績を日本国民は忘れてはなりません。

現在は、敗戦により出来た悪法「国民の祝日に関する法律」により、

「文化の日」などと言う名称になっているが、本来は、

「明治天皇御生誕の日・明治節」でございます。


昭和の日と同様に本日を「明治の日」に改める運動があります。
国会質疑でも「明治の日」に改めては?と質問に、

「国民の理解をいただき、『昭和の日』を制定できたことを思い浮かべながら、

政府として議論を待ちたい」と答弁しております。
この運動を大いに盛り上げていこうではありませんか。