元号が「慶応」から「明治」に変わり「德川 家達」が徳川宗家を相続して、
駿府藩主になると「山岡鉄舟 高歩」も家達侯のお供として、駿府に下ります。
明治五年、「西郷 隆盛」が、陸軍大将兼近衛都督に就任すると、
西郷は「山岡を是非に侍従に」と熱望し、鉄舟先生は10年間の約束で、
明治天皇の「侍従(教育係り)」として仕えることになります。
西郷は、駿府上伝馬町で勝海舟の添書を持って来た鉄舟先生に会った時より、
鉄舟先生の人柄に感服し、若き天皇のお側には「この様な者が必要」と
考えた上での事でしょう。
こうして、鉄舟先生は静岡から東京に戻ると、柏木淀橋に住むようになります。
この場所(現中野区中央1丁目17)は、百年以上を経過した現在でも、
「高歩院・鉄舟会禅道場」として残っております。
明治六年五月五日深夜の皇居火災の時は、ここから寝巻きに袴だけを着け、
いち早く皇居に駆けつけ、江戸城西の丸御殿(皇居)から赤坂御所(東宮御所)に
天皇皇后両陛下が、お移りになるのにお供したといわれております。
赤坂御所が仮皇居になると、鉄舟先生は危急の場合に備えて、
仮皇居(赤坂御所)の西・東京府四谷区四谷仲町三丁目(現東京都新宿区若葉1丁目)
に引越し暮らすようになりました。
鉄舟先生はこの屋敷の座敷にて、大往生を遂げたのであります。
明治十一年八月二十三日の夜に起きた竹橋騒動(近衛連隊の兵暴動)の際にも
着替える事なく、急ぎ刀を手にとり、この屋敷から駆け付けたといいます。
天皇の御座所に着くと、まだ誰も陛下のお側におらず、
陛下は、鉄舟先生の一番乗りを大層お喜びになられたそうです。
他にも明治天皇と鉄舟先生にまつわる話は、いくつもございます。
ある日の、明治天皇と侍従との酒宴の席でのことでございます。
少々お酒に酔われた陛下が「相撲をとる」とおっしゃると、
鉄舟先生に飛び掛り、押し倒そうと致しました。
他の侍従であれば、このような時は、陛下に勝ちを譲る事でしょう。
しかし、鉄舟先生は横にかわし、倒れた陛下に向かいて、
「謹んで言上つかまつりまする。
拙者、陛下と相撲を取ることは、この上ない不倫でござる。
たとえ、陛下がお相手でも、わざと倒れるのは迎合することでございます。
そのうえ、拙者が怪我をすれば陛下はどれほど後悔あそばされるか。云々」
と、酒に酔った際の陛下のご動静を諌め、席を立ってしまいました。
陛下は、それらの言葉をお聞きになり、しばらく考えると「私が悪かった」
と仰せになり、鉄舟先生を呼び戻したとのことです。
陛下と先生が、互いに信頼の絆で結ばれていたのが伝わってきます。
鉄舟先生の病状が悪くなると、明治天皇は何度も侍医や見舞いの品を
おさし遣わしになりました。
ある時は「鉄舟は酒が好きだ、このワインなら少しくらいよかろう」と、
自ら試飲された後、御下賜になったこともございました。
鉄舟先生は感泣して、こう詠じました。
「数ならぬ 身のいたつきを 大君の みことうれしく かしこみにけり」
鉄舟先生は、前徳川将軍に誠忠であったように、ご皇室対し奉り相変わらずの
忠勤でありました。
その頃に詠んだ歌です。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」