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美濃国総社 南宮御旅神社に続いて訪れたのは、岐阜県各務原市に
鎮座します「手力雄神社」です。


永禄十年(1567)、織田信長の稲葉山城攻めの際に戦勝祈願を行ったと
され戦勝後は広大な社領(千三百町歩)や宝物等を寄進したといいます。


由緒
創建不詳
社伝には5世紀末期ごろ中里(今の岐阜県各務原市那加地区)を支配していた豪族により、山の中腹に磐座(いわくら)祭祀として神様を祭ったのが始まりとされます。
美濃國神明帳に、真幣明神(みてぐらみょうじん)のご神名が見られお祀りされていたご祭神がそれと見られる。
主祭神手力雄神は、古くは佐良木郷八ヶ村の山中に祀られていたのを、後に現社地に奉還され佐良木郷の産土神として崇敬されたと伝わります。
672年、壬申の乱で功績のあった村国男依が各務を領地として与えられ各務・鵜沼地区を支配したのち、各牟氏がこの地域を支配することとなります。
室町時代、佐良木郷八ヶ村の氏子を中心に崇敬を受け、薄田(すすきだ)源左衛門尉(げんざえもんのじょう)藤原祐貞(ふじわらすけさだ)が※梵鐘 文明7年(1475年)・狛犬 文明9年(1477年)を奉納し厚く崇敬したと伝わっています。(※現在、笠松無動寺所有 県重文指定) 戦国時代、永禄10年(1567年)織田信長公が岐阜城攻略のおり当社に戦勝祈願をし、祈願成就の後、各務野原近里(自衛隊岐阜基地、市役所周辺より尾崎団地までの現在の那加地区)1300町歩を社領に付しました。また、宝物等を寄進し社宝また文化財として今日に至ります。
江戸時代に入り旗本坪内氏や徳山氏等諸氏の崇敬も深く数百年来八ヶ村氏子等により神事・祭礼が変わりなく奉仕されてきました。社殿は1674年以修復・葺替を繰り返し今日まで三百年余前の姿を保っております。
-美濃国那加総社 手力雄神社公式Webより


手力雄神社と信長公
織田信長は、美濃攻めの際、この各務原の地域においても大きな戦いが行われました。
当社は、木曽川を越えて金華山を眺めることのできる各務原台地北西の角に当たり地理的にも要所として考えられました。
新加納に攻め入った信長は、当社へも攻め入ってきました。
参道を進むと、急に境内に霧が立ちこめ息苦しくなった信長は馬から落ち、体が動けなくなってしまいました。
まさかの出来事に驚き、ご神威(神様のお力)に触れ、今後二度と神社に矢を向けないと誓うと、霧はたちまちに晴れ、信長は動けるようになりました。
すぐさま、神前にて稲葉山城(今の岐阜城)攻略の戦勝祈願をした後、永禄10年8月、斉藤氏を滅ぼし稲葉山城を攻略を果たしました。
当社へ崇敬し、宝物や禁制(市文化財)を残したと伝わります。
稲葉山城から見渡す土地を除地として認めました。
以来、1300町歩(約1300ヘクタール)の広大な境内地を有し、現在の那加地区の発展に繋がりました。 -美濃国那加総社 手力雄神社公式Webより


残念ながら、社殿は補修中。

期待していた寄木造りの彫刻は見ることが出来ず。残念。


本殿海老虹梁巻龍二体(各務原市指定重要文化財)
本殿軒下の左右に配された寄木造りの彫刻です。向拝柱の間をつなぐ虹梁の両端が竜頭形の本 として立体的に強調されたものです。さらに胴体と四肢が主屋とをつなぐ海老虹梁に巻きつくように取りつけられています。
彩色は色あせていますが、彫りの勢いと鋭い顔つきの動態的で迫力のある姿は見事です。
今日伝わる龍の昔話には本殿龍の目に釘を打ったとありますが、実際には目に釘はありません。しかし、寄木を確実につなぐため(季節によって材木が肥大、収縮するため)に隠して大きな釘で固定してあり、正に生きる龍を釘で打ちつけていると言えます。
作者は不明 左甚五郎の作とも伝わる。(一説に左甚五郎は飛騨の匠の総称ではないかとも言われます)
-美濃国那加総社 手力雄神社公式Webより

さざれ石
無人社ではありませんが、神職がお留守のようで、御朱印は頂けませんでした。
つづく
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