近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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高速道路にのり、福井県小浜市から越前市へ。


途中休憩すると、芭蕉の句碑がありました。
"古き名の 角鹿や恋し 秋の月"
往時、敦賀は角鹿(つぬが)と呼ばれ大陸伝来の門口であった。ちなみに「角鹿」の名は気比神宮の一祭神 都怒我阿羅斯等(つぬかあらしど)に由来する。
元禄2年8月 芭蕉は中秋の湊の月と愛でながら 古代の敦賀を偲び、詠んだといわれる。
北陸自動車道杉津パーキングエリア下り線は福井県敦賀市(旧越前国敦賀群)に位置する。
敦賀市は「古事記」に「角鹿(つぬが)」と記され、古代より港湾を中心に栄え、畿内と北陸を結ぶ要衝の地であもあったため、しばしば歴史の舞台として登場する地である。
当パーキングエリアは、越前加賀海岸国定公園の一部である敦賀湾を一望できる景勝地にあり、海に沈む夕日は絶景として知られる。

そんなこんなで着いた先は、織田信長の先祖が神官を務め、
織田家の氏神とされる「越前國二宮 劔神社(別名:織田明神)」です。


ご祭神は、
(主祭神)
素盞嗚尊
(配祀)
気比大神・忍熊王 で、ございます。



ご由緒
劔神社の創祀は悠久の昔、遥か北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、〝劔大神〟と称えてきたことに始まります。
神功皇后摂政の頃に第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを謝び、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いできたことを社記は伝えています。
奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受けてきました。現在所蔵する国宝の梵鐘は、第四十九代光仁天皇の御奉納といわれています。
中世以降は、朝倉氏を始め武将の崇敬も厚く、特に織田信長公は氏神と崇めて、格別の信仰をもって神領を寄進するなど、神社を保護しました。
江戸時代の末には、伏見宮家の御祈願所と定められ、拝殿の御寄進をいただき厚い尊崇をうけて今日に至っています。越前国二の宮として一の宮の氣比神宮と共に、福井県民はもとより県外の方々からも篤い信仰を受けている神社です。
-劔神社公式Webより

拝殿

拝殿ない


本殿


織田神社(八幡宮)旧氣比社


奇稲田媛神社 薬師神社


小松建勲神社


庚申宮


天満宮 南(社殿正面)の鳥居


旧神前院護摩堂
この堂宇は、劔神社の神宮寺である織田寺の護摩堂として延宝三年(1675年)に建立された。堂中では真言密教の修法により護摩祈祷が行われ、煙のために黒く煤けて当時の面影を残している。 -劔神社公式Webより


劔神社と織田信長公
当社の鎮座地である越前町織田は、織田信長公の祖先の故郷です。越前町織田荘の荘官として、また越前国二の宮劔神社の神官として神社に仕えてきた由緒ある家柄でした。
応永年間(1394〜1427)、神官の子に常昌という立派な人物がいましたが、時の越前の守護斯波氏にその才能を見出され、家臣として取り立てられて、尾張の国に派遣されました。苗字は故郷の地名をとって織田を名乗るようになりました。
織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代を勤めるまでになりました。信長公の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。
信長公は戦国の乱世にあっても、劔神社を氏神として深く尊崇し、武運を祈ると共に、多くの神領を寄進し社殿を造立するなど、劔神社の保護と治安に尽くしています。
天正十年(1582)、信長公は本能寺の変であえない最期を遂げ、天下統一の夢は消えましたが、織田の人々は信長公の功績と威徳を偲び、御霊を境内の小松建勲神社に合祀しました。
ちなみに織田氏の家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」ですが、当社の神紋も同じ紋章であり、昔から深いつながりがあることを示しています。 -劔神社公式Webより


越前国二宮 劔神社
御朱印

本日の旅泊地・賤ヶ岳SAにて車中泊
第74日目終了
本日の走行距離 202km
つづく
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