近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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但馬國一宮に続き、但馬國総社 氣多神社に参拝します。


氣多神社(けたじんじゃ)は、旧称を「惣社氣多大明神」といい、
式内社、但馬国総社で、旧社格は郷社です。

ご祭神は、
大己貴命 で、ございます。

拝殿


拝殿前の狛犬


由緒
鎮座地 兵庫県城崎郡日高町上郷字金堀二二七
大古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許乎命」と称されていた。
新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎 命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂から 両社三本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。
天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は 新たに建立された「養父神社」「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
国司文書によれば気多神社は神武天皇九年(前六五一)に 気立(気多)の丘に創建されたと記されている。
文化の改新後は国府地区に但馬国府が創立され、気多神社は 「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郡一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂。鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。
現社殿は延宝五年(一六七七)の再建であり、大正一二年に 大修築を行い現在に到っている。現存する鰐口は応永三二年(一四二五)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治六年郷社に列せられた。
境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社等が祭られている
-境内石碑より

拝殿ない




本殿

境内社
(八幡宮・八坂神社・須賀神社・稲荷神社)

境内社(愛宕神社)

無人社でしたので、御朱印は頂けませんでした。
つづく
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