近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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本丸跡
鳥取城の山上ノ丸は、山頂部を数段に切り開いて構築し、その中央部の一段高い場所にあたるこの地が本丸である。 本丸には、天守櫓の他、著見(つきみ)櫓・多聞櫓、それをつなぐ走櫓などの建物があり、御天守奉行がこれを守っていた。 本丸の中央部には、池田長吉の改築の時掘ったといわれる車井戸がある。-案内板より

車井戸
池田長吉が慶長七年(1602)から行った城内大改装の時に掘った井戸と伝えられています。-案内板より


本陣山
目の前、1.5km先に見える山を本陣山(標高 252m)といいます。天正9年(1581)、羽柴(後の豊臣)秀吉が、鳥取城を兵糧攻めした際に、この山に本陣を構えました。
本陣部分は、太閤ヶ平とも呼ばれていますが、巨大な土塁や空堀が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた臨時的な土の城としては、日本最大級と評価されています。 -案内板より

山上ノ丸本丸からの眺め

天守台(南北10間5尺×東西10間2尺のほぼ正方形)

鳥取城の天守は、山上ノ丸の北西隅に位置し、「因幡民談記」によると、
天正元年(1573)に山名豊国が因幡守護所を布勢天神山城から鳥取城に
移した際に、布勢天神山城の3層の天守を移築したとされています。
池田長吉が鳥取城主となった際、強風によるゆがみを避けるために2層に
改築したとされます。

天守台石垣

古絵図等によれば杮葺または板葺の屋根、下見板張りの外装という寒気に
配慮した造りで、最上階屋根以外に破風のない外観であったと考えられて
いる。元禄五年(1692)に落雷で焼失し、以後再建されませんでした。

天守台(天守櫓跡)に上がります。

穴蔵(天守台中央部)と天守礎石


遠くに砂丘を眺める事ができ、

良き眺めです。

吉川経家の鳥取籠城と切腹
天正九年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。(現在残る城跡は、慶長年間の池田長吉造営以後のものであり、経家の在城時の遺構は不明である。)この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討いようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。
織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。天正九年三月十八日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。
同年七月十二日に、信長の派遣した武将羽柴秀吉が鳥取に到着した。鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ包囲作戦を展開した。
これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後三ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。
ついに十月二十五日、吉川経家は城兵を助けるために開戦し、自身は城中広間で切腹した。時に三十五歳であった。
死の前日、十月二十四日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。-案内板より
つづく
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