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鳥取城山城部(久松山頂 標高263m)・山上ノ丸にきました。

本丸石垣

二ノ丸石垣


史跡 鳥取城跡附太閤ヶ平
鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことにはじまる。
以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。
このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも類例の少ない城跡である。
このことから、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定された。
鳥取城の築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは武田高信の時期であり、後に山名豊国がここに移った。
この頃の鳥取城の主要城郭は、山上ノ丸とそこから西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を削平した平坦な遺構が数多く残っている。
関ヶ原の戦の後に、鳥取城主に任ぜられた池田長吉によって、鳥取城は本格的な近世城郭として大改造がおこなわれた。
これに伴って山下ノ丸が大きく拡張整備され、現在みられるような城跡の基礎が出来上がった。
その後、池田光政を経て寛永9年(1632)、岡山から池田光仲が入城して以後、鳥取池田家の因幡・伯耆両国支配(32万石)の居城となった。
明治維新後、城郭は陸軍省の所管となり、明治12年にはすべての建物が撤去された。
なお、鳥取城は戦国時代末期織田氏と毛利氏の対立から羽柴秀吉の攻撃をうけたが、そのときに秀吉が構築した陣跡が樗谿奥の本陣山に残っており、太閤ヶ平として鳥取城跡とあわせて指定されている。-案内板より

三ノ丸下


三ノ丸下から三ノ丸を見る

三ノ丸跡

二ノ丸跡


山上ノ丸・本丸には、天守、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物
があり、東方に二ノ丸・三ノ丸と見なすことのできる2段の郭があります。
本丸西方の一段下には出丸があり、下段の櫓の他に馬場も設けられていた。

本丸跡
つづく
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