近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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「陰徳太平記」によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。「信長公記」には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。

天守台から見た山上ノ丸本丸

本丸虎口(奥の建物が建つ所は山上ノ丸二ノ丸)


山上ノ丸部を下ります。

鳥取の街並みと出丸跡(手前。本丸西方一段下)


山麓部・二ノ丸に戻ってきました。

上から見た二ノ丸表門跡

三階櫓跡

この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。
元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失したのちは、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた。-案内板より

二ノ丸から見た丸の内と大手・擬宝珠橋と中ノ御門跡

石切場跡

目の前の崖(がけ)は、石垣を築くために石を切り出した石切場の跡です。
もともとこの場所には、久松山(きゅうしょうざん)の中腹から続く尾根があったようです。
しかし、二ノ丸の敷地を造る時、その尾根を切り崩しながら、得られた石材で石垣が築かれました。
崖の表面を注意深く見てください。長方形の穴が刻まれています。
これは「矢穴」といい、「矢」と呼ばれるクサビを打ち込むための穴です。
こうした穴に鉄製(一説には木製)の「矢」を入れ、大きなハンマーで叩(たた)き岩を割り、石を切り出しました。
城内には、本丸へ続く中坂道(なかさかみち)周辺にも石切場が残っています。
石垣を築く時、最も経費のかかる工程は、石の運搬でした。
従って、城の近くで石垣に適した石が採れることは重要で、鳥取城の石垣も大部分が久松山で産出する石が使われています。
ただし、昭和34年(1959)以降の修復個所は、久松山の保全のために、主に他地域から算出する石材が使われています。 -案内板より


「お左近」の手水鉢

近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれました。この時の工事にあたって、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女・「お左近」の活躍はめざましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった三階櫓も、無事完成したという伝説が残されています。
昭和三十八年、この「手水鉢」と思われる石材が発見され、三階櫓石垣の修理に際して、もとの位置に復元されました。

登り石垣(二ノ丸北西側)



登り石垣(外側)

中仕切門(西坂下門)が見えてきました。

中仕切門(復元)の向こう(外)側は「右膳の丸」です。

城門復旧記
事業内容 復旧工事
着工:昭和50年5月
竣工:昭和50年6月
この門は、鳥取城跡内に残る唯一の城門であって「お城の門」として広く市民に親しまれていたが、長い歳月を経るにつれて、老朽化が甚しく修復の時機に至っていたところ、去る3月20日の強風(風速29.7米)によって倒壊した。
たまたま、社団法人鳥取青年会議所では、6月22日当市に於いて開催される第24回中国地区会員大会の記念事業として、自ら復旧工事を実施され、完成されたものである。
次に工事の概要を記し後資とする。
記
倒壊前の型式を基調とした。
木材は破損老朽が著しいためすべて新調し、松材を主とした。(防虫防湿の加工をなす)
瓦は新調し(いぶし瓦)金具は従来のものを模造した。
昭和50年6月22日 鳥取市 -案内板より


近世城郭としての鳥取城
現在みられる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備れたものです。特に元和3年(1617)に入城した池田光政は、それまで5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新します。中ノ御門から続く大手登城路や、天球丸、二ノ丸も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しました。城内には、幕府の規制で三階以上の建物はありませんが、二ノ丸には創建時、最新の建築様式だった層塔型(正方形の櫓台に築かれ、上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓。初期のものは装飾がないデザインが特徴)の三階櫓が、山陰地方で初めて建てられました。
その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていきます。江戸時代の終わりには、二ノ丸や三ノ丸が大きく拡張されたほか、三ノ丸の南側には凶作に備えて籾を保管する倉庫群が造られました。
城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れました。城の建物は残っていませんが、宝扇庵(旧化粧の間)や倒壊後復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えています。 -案内板より
つづく
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