~西へ~(375) 69日目② 鳥取県護国神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

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鳥取砂丘からほど近い高台に鎮座します「鳥取縣護國神社」に。

       
           鈴木孝雄陸軍大将 揮毫の社号標



 由緒
明治元年十一月鳥取市行徳字角台に祠宇を仮設し戊辰役に戦死した鳥取藩士の霊を祭る(鳥取藩主池田慶徳祭主)
明治三年五月鳥取市浜坂字代々山に招魂の祭場を設け祭祀す
明治八年池田家より鳥取県に移管され鳥取招魂社と称す
明治十二年十一月鳥取市西町に移転明治三十年十一月鳥取市上町に移転昭和十四年四月 鳥取縣護國神社と改称昭和二十一年 因伯神社と改称昭和二十二年鳥取市寺町の火災の飛火により社殿焼失昭和二十七年一月 鳥取縣護国神社と復称昭和三十年三月 伊勢神宮別宮倭姫宮の譲与を受け社殿改築昭和四十九年五月 鳥取市浜坂1318番地53に移転  -神社しおりより


          
              社頭の狛犬(昭和十六年建立)


 回廊付きの拝殿


 拝殿ない


戊辰役以降、国の為に殉じた鳥取県にゆかりのある
英霊23,477柱をお祀りします。



 拝殿から拝する本殿


 境内


       

 彰忠碑(左)
日露戦争時、陸軍輸送船「常陸丸」が、玄界灘を航行中、露艦隊の砲撃を受け沈没、指揮官佐須知大佐をはじめ千人の兵員の戦死を慰める碑

 海軍忠魂紀念碑 (右)

       
   古南決死隊顕彰碑           副碑
 碑文
昭和二十年四月五日 ビルマ国タゥンガップ地区三七〇高地英印軍陣地に斬込死守の命を受け隊長古南大尉以下三十四名決死突撃を敢行激戦の末同地を占領せり 
然れ共隊長以下多数の将兵護國の華と散る
茲に顕彰碑を建立し在りし日の壮容を偲ぶ


       

 慰霊碑(左)

 比島戦没者慰霊碑(右)
碑文
昭和十九年十二月 比島戦線急を告ぐるや歩兵第六十三連隊・通称鉄五四四七部隊は山下大将の麾下に入り ルソン島に向かふ海域は既に米軍の制圧下に在り 
第三大隊将士の過半は上陸寸前乗船と運命を共にせらる 
連隊は之を痛哭しつつも上陸を完了してバレテ地区に檬る昭和二十年一月より装備を誇る米軍二箇師を迎撃して譲らざること五箇月 敵をして地のバレテ峠と嘆じせしむ 
然れども其の間連隊は大半の将士を喪ひ食料また尽きて転進の止むなきに至る 
惨たる飢餓の行進を辿りて漸くウットワガシに達せしが 九月十日敗戦の大詔を伝達せらる
噫 北満より征途に就きしは林連隊長以下二千三百二十名なりしに 残存するは僅かに百五十名なり 
茲に歩兵第六十三連隊比島戦没者慰霊碑を建立し護國の忠魂を無窮に伝えんとす


      
 陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑(鳥取県少飛会)


          
           鳥取縣護國神社 御朱印


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。








                                 つづく






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