~西へ~(311) 60日目① 安芸国総社(後継社) 多家神社(埃宮)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


60日目の夜明けです。


良い天気になりました。



「天高く馬肥ゆる秋」ですかね。
 この故事、「北方の騎馬民族が攻めてくるぞ」の意だから好きです。
 


そんな中、本日最初に訪れたのは「安芸国総社(後継社) 多家神社」です。

        

江戸時代に、式内多家神社の後裔社の主張論争となっていた、境内社に
「たけい社」のあった「松崎八幡宮」と、安芸国総社である「総社」の両社で
祀られていた神を合祀し、式内名神大社「安芸国安芸郡 多家神社」の
後継神社として、明治六年(1873)に創祀された神社です。

           
        鳥居前の狛犬(昭和四十九年四月三日建立)

       

石段を上がると二の鳥居です。


 舟形をした手水鉢

           

現鎮座地の「誰曽廼森(たれそのもり)」という名前は、神武天皇の
滞在時に「曽(そ)は誰(たれ)そ」と訊ねたことによるものと伝わります。


 拝殿(桁行五間梁間三間 入母屋造平入。正面に千鳥破風を飾る。銅板葺)

      

  安芸国開祖 多家神社(埃宮)
 主祭神 
神武天皇 - 神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)
安芸津彦命 - 安芸国の開祖神
 相殿神
神功皇后
応神天皇
大己貴命
 摂末社
貴船神社 - 祭神:高龗神、別雷神、大山津見神
 由緒
この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。
『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かんやまといわれびとのみこと)が七年坐すとあり。『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。
この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。
平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社[厳島神社](いつきしまじんじゃ)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。
当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。
中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。
そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。
明治7年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。
大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。
なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。 
たれその森につて「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。-案内板より



 拝殿ない

     
拝殿両脇に居た狛犬(参道入口と同じ出雲丹後型)
文政八年(1825)建立


 
本殿(三間社流造)、瑞垣で囲まれ、正面には中門が付いていました。




                                 つづく






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