近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
大分八幡宮に続いて訪れた先は「大宰府跡」です。

外交と防衛を主任務とし、行政・司法も所管した大宰府は、与えられた
権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。

軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、
西辺国境の防備を担っており、外交面では、北九州が大陸との交流の
玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待、監視
するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の
沿岸に置かれました。(大宰府に直接来れないようにするための施設)

政庁跡には門に回廊、正殿、脇殿など、瓦葺きの楼閣状の荘厳な建物群があったと考えられています。

政庁正殿跡(後ろに見える山が大野城跡)

隣接している「大宰府展示館」に行くも休み。楽しみにしていたので残念です。

気を取り直して、大野城跡へ向かいました。

大野城は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山
(四王寺山)に大和朝廷が、唐・新羅の侵略に備えて亡命百済貴族の
憶礼福留、四比福夫に命じて築いた古代山城です。


四王寺山の尾根をめぐって土塁を築き、また、土塁が谷と接する部分は
石塁を築き、城内には倉庫などが建てられました。発掘調査により約70棟
の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫と考えられています。
この大野城は同時に築かれた基肄(きいの)城(眼下の平野をはさんで向
い側(南)にある基山)、前年の664年に造られた水城(みずき)とともに
太宰府を守る役目を果たしました。



特別史跡大野城跡 百間石垣
大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲んでいるが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。
この百間石垣の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名付けられたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。 -案内板より



大石垣



約8kmにわたり城址を囲む土塁と点在する石垣が見れるが、登城という
よりハイキングといった方が的確な表現だと思う。
その他の遺構は、城門跡、建物群礎石、井戸くらい。

日本100名城スタンプ
大野城(86)
(小さい画像はクリックで拡大)
つづく
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