~西へ~(246) 51日目⑤ 日本100名城 佐賀城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


佐賀縣護國神社から日本100名城の一つ「佐賀城」にやってきました。

     

佐賀城(古名:佐嘉城。別名:沈み城、亀甲城)は、龍造寺氏の本拠・
村中城の地に鍋島直茂が築城、以後明治維新まで肥前國佐賀藩鍋島氏の
居城でありました。

    

今回の登城は、いきなり「主菜」からです。


 本丸表門・鯱の門(櫓門)、続櫓(現存構造物・国の重要文化財)



鯱の門は、天保九年に本丸正門として建てられた櫓門です。 



続櫓により、横からの矢掛けも可能にしています。



重要文化財 佐賀城鯱の門及び続櫓  昭和32年6月8日指定
 本丸御殿は慶長13年(1608)から慶長16年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。
 ところが、この二の丸も天保6年(1835)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。
 この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838)の6月に完成したものです。
 明治7年(1874)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。
 門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。
-案内板より


     
   潜り戸(城外側)           (城内側)

     

門扉には明治七年の佐賀の乱による弾痕が残されています。


  城内側

       
     城門の名の由来となった「鯱」(高さ約1.7mの青銅製)

     

鯱の門の中に入ってみました。



日本建築の良さの一つ「梁」



2階建てとなっていますが、1階部天井は可成り低くなっている。



通常、鯱の門内部は非公開のようです。幸運でした。


 鯱の門から見た本丸と御殿



     (小さい画像はクリックで拡大)



                                 つづく







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