近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
與止日女神社の境内にありました周辺案内図を見ていると、
「葉隠」の文字に目が止まりました。

そういえば「山本常朝は肥前國佐賀鍋島藩だったな」と思い出し、
行ってみることにしました。


佐賀市史跡 葉隠発祥の地 昭和42年2月11日指定
現在、この地には、葉隠の口述者山本常朝が隠棲した朝陽軒(のち宗寿庵)等の遺構は残っていない。
元禄13年(1700)山本常朝は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去のため落髪出家してこの朝陽軒に隠棲した。10年を経て同藩士田代陣基(つらもと)が自己修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちの大小隈と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが「葉隠」11巻である。
常朝先生垂訓碑は、昭和10年(1935)10月に建立されたもので、この碑銘は竹富時敏の書であり、常朝をたたえた碑文は西村謙三の撰、中島雅明の書である。また碑石の背面には、有名な
「憂世から何里あろうか山桜」
「白雲や只今花に尋ね合ひ」
の句が誌されている。 佐賀市教育委員会 -案内板より

葉隠(はがくれ)とは、江戸時代中期(1716年頃)肥前国佐賀鍋島藩士・
山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基が足かけ
7年の歳月をかけて筆録し纏めた全11巻からなる葉隠聞書ともいう書物です。
葉隠の記述の中で特に有名な一節「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」は、
この一説だけを取り出して、単純に解釈される事があったが、全文を読むと
「平和ボケした官僚武士への嘆き」と「処世術の手引書」的な読み物となって
ます。「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」は「命惜しむな、名を惜しめ」
と同様の往時の「武士制度(社会)」の生き残り術の一つですので、現代には
必ずしも当てはまりませんが…

「常朝先生垂訓碑」
三島由紀夫氏が「葉隠」に心酔して著した「葉隠入門」という本もあったなぁ。
自宅に戻ったら読み直してみるか。なんて思いながら、
さぁ、出発です。


次なる地へ向かう途中に「秋桜」が綺麗に咲いていました。

秋桜(コスモス)の花言葉は、

「少女の純真」と「真心」

心と目の保養のため、ここで、暫し休憩。
(小さい画像はクリックで拡大)
つづく
=おまけ=
「葉隠聞書」「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」の続き、
(原文)
二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわって進む也、図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて、図に当るやうにする事は及ばざる事なり。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。もし図に外れて、生たらば、腰ぬけ也。此境危き也。図に外れて死にたらば、気遣いにて恥にはならず。是が武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度な く家職を仕課すべき也。
(訳文)
二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほうがよい。
むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。
思ったようにいかない場合を考えたり、それでは犬死にだなどという意見は、上方風の思いあがった武士道である。
二者択一の場で、思ったようにするなどということは、そうそうできることではない。
自分も人も生きるほうが好きである。おそらく好きなほうに理屈がつくであろう。しかし、もし選択を誤って生き延びたととしたら、腰抜けである。
思ったように行って生きるのと、思ったように行かないで生きることとは、紙一重の差である。
うまく行かず死ぬことになっても、「気違い」だというだけで恥にはならない。これが武士道の一番大切なところである。
毎朝毎夕、いつも死ぬ覚悟をしていれば、武士道の自在の境地に達することができ、一生失敗することがなく、家職をまっとうすることが、できるのである。
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