近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
運よく「小島神社」に拝礼する事ができ、次なる地は、壱岐島の北部、
太閤秀吉公が平戸藩主松浦鎮信に命じて築城させた「勝本城」跡です。


国道から脇道に折れ、城山への細い道へ入り、車を停めて
本丸(標高78.9mの山頂部)を目指して歩きます。


諏訪大社式年造営御柱大祭 (左)
諏訪大社の特筆すべき大祭で、社殿の建替えと、その四隅に(おんばしら)と呼ぶ巨木を曳建てることに分けられる。
起源は遠く古代に溯るが、平安時代、桓武天皇の御世からは、信濃国の総力をあげて奉仕され、費用や材料の調達のために元服や婚礼、家屋の新築が禁じられたこともある。
現在では造営も一部の建物(御宝殿)に留まり、諏訪地方六市町村二拾万人の氏子の奉仕によって、諏訪大神の御神徳の更新を祈り、氏子の魂を結集し、盛大に行われる。
上社は八ケ岳の御小屋嶽の神林から、下社は霧ケ峰の中腹から、それぞれ、直径一メートル余、重さ十二、三トンの樅の大木を各八本伐り出し、独特の木遣り歌にあわせ、一本二、三千人の人々によって、曳行される。
途中、急坂の木落しや宮川の川越等があり、その豪壮雄大な様は、他に比類なく、天下の奇祭とされる。 信濃国一之宮諏訪大社 -案内板より
曽良翁終焉の地に諏訪の御柱を贈る (右)
この巨木は、平成四年の式年造営御柱祭に諏訪大社上社本宮に建てられた御柱で、諏訪市民が氏子として曳行を担当した御神木である。平成十年の御柱大祭をもって、その役目を終えたのを機に、諏訪市に生まれ、壱岐に客死した蕉門十哲の一人、曾良翁の終焉の地である友好都市勝本町に御柱を建立することを企画し、諏訪大社に請うて、諏訪市がこの御柱を譲り受けた。
長野県無形民俗文化財「諏訪大社の御柱祭り」のシンボルである御柱を勝本町との末永い友好親善を願って、ここ、城山の地に贈る。
平成十年七月五日 長野県諏訪市 -案内板より

崩れた石垣を見ながら進みます。

石の鳥居がございました。

本丸門・一ノ門と二ノ門の間にあった枡形の石垣が現存しています。

城内側から見た枡形と石垣


本丸跡に鎮座します「城山稲荷神社」
天正十九(1591)年、豊臣秀吉は風本(かざもと)城を築きました。
文禄の役がはじまるとともに、壱岐の各地で秀吉率いる軍の海上安全と戦勝の祈願が行われ、天正二十年にこの稲荷神社もまつられました。
戦役の終了後は、勝本浦の人々のあつい信仰の場となり、現在まで長い間まもられてきました。
毎年、旧暦2月の初午の日に一支国(いきこく)の大神楽が行われ、海上安全・大漁満足・家内安全・商売繁盛祈願のお祭が行われています。 城山稲荷神社講中
-案内板より

勝本城跡
-朝鮮出兵時(唐入り)の壱岐の拠点城で、天正19(1591)年に完成-
風本城・武末城・雨瀬包(あませかね)城ともいう。豊臣秀吉は朝鮮出兵に際して肥前名護屋城を本営としたが,それと共に壱岐・対馬にそれぞれ駅城を築き,その兵站(へいたん)基地とすることを命じた。この壱岐の駅城として,海上交通上の要路である勝本港に臨む城山に設けたのが勝本城である。築城には松浦鎮信(しげのぶ)が主としてこれにあたり,有馬晴信・大村喜前(よしあき)・五島純玄(すみはる)の三氏がこれを支援し,およそ4ヵ月の突貫工事で天正19年(1591)末に完成した。そして秀吉の弟秀長の家臣本多因幡守(いなばのかみ)正武が慶長3年(1598)までの7年間入部し,戦役終了後破却された。山頂に本丸跡があり,石垣が残っている。昭和46年2月5日に武末城跡として県指定されている。 長崎県学芸文学課Webより

本丸跡展望台からの眺め
(小さい画像はクリックで拡大)
つづく
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