~西へ~(267) 45日目① 愛野展望所・めし・堤防道路 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





45日目は、漁船のエンジン音で目が覚めました。



旅の友・エブリイの屋根には、火山灰の汚れが。おそらく阿蘇山のだろう。



昨日の豪雨もすっかりあがり、気持ち良い運転で、



海沿いの道を進みます。



途中、看板を見て「愛野展望所」に入り休憩。



昭和天皇も何度か巡幸あそばされた所であった。 何か嬉しい



何か食べようと駐車場を見回すと「チェーン店のラーメン屋」と「食堂」が。

   
    おにつか(愛野展望所駐車場の片隅)

何度か食べた事のあるチェーン店はパスして、食堂に入り、長崎と言えば
「ちゃんぽん」なので注文。
市販されている出来合いのスープと思われるが、エビ、タコ、アサリ、蒲鉾
(3種)、野菜が煮込まれているので、中々の味。麺は定番の柔らかい太直。
普段あまり食さない「ちゃんぽん」なので、比較が出来ないが、胡椒を足し
普通に頂けました。


 ちゃんぽん



再び走り出すと道路案内板に「堤防道路」の文字。



興味を引き、行ってみました。



北海道以来かな。長い直線道路。



土手が邪魔(堤防なので仕方がないが)だが、窓全開で爽快。



     

駐車場に入り、案内板を見て、ここが揉めている「諫早湾干拓事業」の場
であることを知りました。



  

    

 
 翻弄された諫早干拓
開門期限あと半年 菅元首相が残した時限爆弾
 「私自身も1997(平成9)年のギロチン工事以来、現地に何度も足を運び、私なりの知見を持っておりました。すでに工事は終了しているわけですが、開門により海をきれいにしていこうという高裁の判断は大変重いものがあると判断して上告しないという最終判断を下したところであります。以上です」
 平成22年12月15日、民主党の菅直人首相(当時)は記者団を緊急に集め、「国営諫早湾干拓事業」(長崎県諫早市)の潮受け堤防の開門調査実施を命じる福岡高裁の控訴審判決を受け入れる方針を表明した。
 菅氏はかねて諫早湾干拓事業を「無駄な公共事業」の象徴と捉え、全長7キロの堤防で293枚の鉄板が海を遮断する様子を「ギロチン」と名付けて自民党政権を糾弾してきた。テレビカメラを引き連れて堤防を視察し、「今すぐ開けなさい!」と職員を怒鳴りつけたこともある。
 それだけに「堤防が有明海の環境を悪化させた」とする反対派の主張を認め、堤防排水門を3年以内に常時開門するよう命じた福岡高裁判決は「我が意を得たり」だったはず。13年5月に小泉純一郎首相(当時)がハンセン病国賠訴訟の熊本地裁判決を受け入れ、喝采を浴びたことも脳裏をよぎったに違いない。
 その証拠に同じ夜、再び記者団の取材に応じ、得意満面にこう語った。
 「まあ、私は国会議員の中でも(問題を)よく知っている一人だと思っています。諫早干拓事業は色々な意味で象徴的な事業です。私は歴史的に反省があってもいいんじゃないかと思っています」
 だが、その場しのぎの人気取りで支持率が回復するはずもなく、その後東日本大震災や福島第1原発事故で失政を続けたあげく菅氏は翌23年9月に退陣に追い込まれた。自業自得としか言いようがないが、上告断念による禍根はなお残り、解決の筋道は見えない。

 諫早湾干拓事業が計画された背景には、毎年のように洪水や高潮に悩まされてきた諫早湾岸住民の苦難の歴史があった。
 遠浅の有明海に面する諫早湾は満潮と豪雨が重なると水の行き場がなくなり、街中が水浸しになる。昭和32年7月の豪雨では市内だけで死者586人に上る惨劇を招いた。農作物は海水に浸かり大損害を受けた。
 それだけに住民たちにとって堤防は悲願だった。塩害や洪水が防がれる上、干拓で農地が広がるならば、こんなにうれしいことはない。
 そんな住民の意向を受けて西岡武夫前参院議長(故人)の父、西岡竹次郎知事(同)が「長崎大干拓構想」をぶち上げたのは半世紀以上前の昭和27年だった。諫早湾1万1千ヘクタールを閉め切り、干拓地を作る壮大な構想だったこともあり、なかなか実現できず、農水省が規模を3分の1に縮小した上で着工したのは平成元年。19年に堤防が完成し、干拓農地(670ヘクタール)と淡水調整池(2600ヘクタール)を整備する造成事業も20年に終了した。総事業費は2500億円に上る。今は41の法人・個人が入植している。
 ところが、二枚貝タイラギや海苔に甚大な被害が出たとして、平成14年に有明海沿岸の漁業者らが工事中止を求めて佐賀地裁に提訴した。16年に佐賀地裁は漁業被害との因果関係を一部認め、工事中止の仮処分を決定したが、翌17年に福岡高裁は仮処分を取り消し、工事が再開された。このように司法判断が迷走する中で出されたのが22年の福岡高裁判決だった。

 菅氏のトップダウンによる「上告断念」に地元自治体の関係者は腰を抜かした。一報を聞いた長崎県の中村法道知事は「国営事業として進められたのに一切相談・報告がなく、報道で初めて聞いた。大変遺憾だ」と吐き捨てた。
 そもそも控訴審の裁判長を務めた古賀寛判事は、法曹界では有名な“いわく付き”の人物だった。高齢者の生活保護基準2割引き下げを違法としたり、中国籍女性に生活保護の準用を認めるなど「リベラル判決」を連発し、上級審で判決が覆ったことも少なくない。
 開門を命じる判決でも、国の主張はことごとく退けられた。開門による干拓地農業などへの悪影響についても「立証されていない」とにべもなかった。
 それだけに政府内では「あまりに一方的な判決だ」「上告しなければ大変なことになる」との意見が大勢を占めた。中村氏も上告期限の平成22年12月21日、諫早市の宮本明雄市長や住民代表らとともに首相官邸を訪ね、「市民生活に大きな問題がある」と上告するよう切々と訴えた。
 だが、菅氏は「私が決断したことだ」とけんもほろろ。仙谷由人官房長官(当時)や鹿野道彦農水相(同)も上告を促したが、一切耳を貸さず、判決は確定した。開門期限は平成25年12月21日午前0時。菅氏が残した時限爆弾のタイマーはなお刻々と動き続けている。

 このような経緯があるだけに長崎県や諫早市は、開門期限が半年後に迫る今も「開門阻止」の強硬姿勢を崩さない。裏には「開門して高潮などで農作物に大損害が出たら誰が責任を取るのか」との思いがにじむ。
 高裁判決後、専門家による有明海の海洋環境や、開門による生活、営農、漁業への研究が進み、「諫早湾遮断と海洋汚染の因果関係はない」とする意見が強まっていることも大きい。農水省が昨年8月に公表した環境アセスでも因果関係は立証されなかった。
 福岡高裁判決を否定するかのような判決が出たことも地元の背中を押した。
 「25年12月まで」という開門期限に不満を持つ反対派が「即時開門」を求めて起こした訴訟で、長崎地裁は23年6月、「漁獲量減少と干拓事業の因果関係は認められない」「事業には防災効果や営農効果がある」と請求を却下したのだ。
 昨年12月には民主党政権は終わりを告げ、自民党政権に変わった。
 中村氏は今月12日、意を決して農水省を訪れ、林芳正農水相に開門調査の白紙撤回を求めた。手渡した意見書には「開門しても有明海の環境改善につながる具体的効果が期待できない一方、防災、営農、漁業面に被害が生ずることは科学的、客観的に明らかになった」と記されていた。
 ただ、林氏は「政府は開門義務を負っており、地元の同意を得られるようにするのが責務だ」と述べ、司法判断に従い、開門調査に踏み切らざるを得ないとの考えを示した。代わりに開門後の塩害被害に備え、海水の淡水化施設の建設工事の契約を業者と結んだことを明らかにしたが、被害を前提に開門することに地元が納得するはずもない。

 当の菅氏は「脱原発」にのめりこみ、諫早湾干拓事業について語ることはほとんどなくなった。宮本氏はなお怒りが収まらない。
 「菅さんと話をしたけど知見なんてかけらもなかったですよ。諫早干拓は悪だという一方的な知識だけ。開門した場合の影響なんて考えていなかったじゃないですか。完全にリーダーシップをはき違えている…」
 開門に反対する住民団体「諫早湾防災干拓事業推進連絡本部」の栗林英雄本部長(諫早商工会議所前会頭)は深いため息をついた。
 「菅氏は市民運動家の時と同じ軽挙妄動で国の歩む道を誤らせた愚かなリーダーだったが、干拓事業の本質の議論がなされず政治の都合で振り回されたことが悔しい。不幸な運命としか言いようがないですね…」-msn産経ニュースより





                                 つづく







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