近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
熊本から高速フェリーで一気に島原に着ました。

正面に「眉山」を見て、島原城へ。

島原城は、有明海を望む、雲仙岳の麓に位置する城で、別名、森岳城、
高来城といいます。
城郭縄張りは、ほゞ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴です。
本丸は全てを水堀で囲まれており、虎口は、二の丸と繋がる廊下橋形式の
木橋一本だけ。その為、橋を壊せば本丸を独立させることが出来るが、逆に
袋の鼠状態になり、縄張りの欠陥とも言える。
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所でありました。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と
櫓49棟を建て並べた不相応な造りで、かつ、火山灰や溶岩流でなる地盤
での普請工事は困難し、その後に起った一揆の一因とも言われてます。

左から天守、辰巳三層櫓、丑寅櫓(外観復元)
先ずは、堀沿いを見て廻ります。

西側から見た二の丸(左側)と本丸(右側)を隔てる堀

北から見た城址
(手前が二ノ丸。奥の本丸に建つ櫓は、丑寅櫓(左)と天守(右))

東側から見た本丸(右側)と二の丸(左側)を隔てる堀

丑寅櫓(外観復元)

本丸南側の堀

本丸石垣西面を壊して造った車道(↑の位置)から本丸へ。

島原城由来
この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この端祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。元和4(1618)年着工、4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。
層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を3層櫓で固め外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ練塀で取囲みました。4万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、寛永14(1637)年の島原の乱では一揆軍の猛攻を凌ぎ、寛政4(1792)年の島原大変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。明治維新で廃城になり、払い下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続きました。
昭和39(1964)年に天守閣が復元されるなど、次第に昔の面影を取り戻しつつあります。 -案内板より

本丸に入り、すぐ左に建つ、西櫓(外観復元)

天守(外観復元)
独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で、
破風を持たない。最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため
「唐造り」のようになっていたとされる。

本丸内の像

天草四郎の像(後の櫓は辰巳三層櫓)

辰巳三層櫓(外観復元)

長塀(復元)

丑寅櫓(外観復元)

本丸から有明海・熊本を見る

本丸から見る二の丸(北側)

天守北面(外観復元)


日本100名城スタンプ
島原城(91)
つづく
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