近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
熊本城跡に鎮座する「熊本県護國神社」から城址中心部へ向かいました。


最短距離は立入禁止となっており、グルっとまわり、桜の馬場(城彩苑)へ。

桜の馬場(城彩苑)

画像上の赤(二の丸・天守閣)ルートにて登城

未申櫓(木造復元)

飯田丸五階櫓(木造復元)


未申櫓の建つ「奉行丸」の土塀も崩れておりました。

西大手櫓門手前の石垣

左から宇土櫓(現存)、小天守(外観復元)、大天守(外観復元)

情報で、宇土櫓(現存)は無事と分かってはいたが、
実際に見て安堵しました。

西出丸の長塀(復元)、石垣(再建)は、北側が崩落してます。

二の丸跡

西出丸の北西隅に建つ「戌亥櫓」です。

西側、北側につながる石垣は崩れ、櫓は何とか立っているように見えます。

よく見ると土台の石垣も崩れており、
角の「算木積み」部のみで支えてられております。


全てではないですが、積み直した新しい石垣が崩れている様です。

昔来た時は、この堀にも入る事が出来た様な気がします。

西出丸北側の石垣は、ほゞ全壊です。

勇壮にそびえる熊本城
日本三名城のひとつといわれる熊本城は、加藤清正(かとうきよまさ)が慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけ築城した天下の名城です。その構えは豪壮雄大で、城域は98ha、周囲5.3Kmにも及びます。当時は大小天守閣はじめ、櫓(やぐら)49、櫓門18、その他の城門29を数え、実戦を想定した巨大要塞でした。自然の地形を利用した石垣は、敵に対する備えでもあり、その美しい曲線から「清正流石垣」とも呼ばれます。加藤家2代、細川家11代の居城として続きましたが、明治10年の西南戦争では、薩摩の大軍を迎えて50余日の籠城に耐え、難攻不落の名城の真価を発揮しました。しかし、薩軍総攻撃の3日前、原因不明の出火により、宇土櫓(うとやぐら)はじめ11棟を残し主要な建物を焼失しました。現在の天守閣は昭和35年に市民の浄財を基に再建されたもので、加藤家、細川家、西南戦争などの資料が展示されています。熊本県立美術館や二の丸広場など家族でも楽しめる施設も多く、春は桜の名所のひとつでもあります。 -満游くまもとWebより
つづく
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