~西へ~(247) 42日目⑪ 旧海軍航空隊出水基地(出水特攻碑公園Ⅱ) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


特攻碑公園の防空壕の上には、慰霊碑が建っておりました。



慰霊碑に拝礼いたします。

   
  特攻碑 (左)
 碑文(表)
雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ
 碑文(裏)
吾らに代わりて 代わりなき若き命を南海の千尋の底に沈めし若き勇士たちよ
今日よりは安らけく瞑れ
 昭和三十五年四月十六日建立  碑銘 阿川弘之「雲の墓標」より


  献歌碑 (右)
 碑文
(正面)"長州の 花に生まれて 国の為 出水の里で 永久に眠れ"
(側面左)"空まもる つわものどもの 勲は 永久に眠れし 出水の里に"
(側面右)"国のため 何か惜しまん 若桜 散て甲斐ある 命なりせば"


 
陸攻隊銀河隊出撃之地
 碑文
大東亜戦争中昭和19年10月、銀河陸上爆撃機405、攻撃406飛行隊は、
此の地に763空を編成開隊し、殉職者相次ぐ猛訓練を重ね、
台湾・比島・沖縄方面に転戦、特に比島及び出水よりは特攻出撃を繰り返し、
翌20年4月までの間にその多くが散華した。
昭和20年4月、一式及び九六式陸上攻撃機松山空・豊橋空攻撃隊は、
米軍沖縄上陸に対応し、急遽此の地に進出、
出水部隊陸攻隊として沖縄周辺の米艦船並びに飛行場に果敢な夜間攻撃を
反復し早くも六月遂にその過半を失うに至った。
昭和18年出水海軍航空隊開設以来、若き隊員を声援し、
空襲下基地修復にも努められた出水の市民に、
多くの犠牲者を生じたことは遺憾の極みである。
戦後五十年に当り、戦没者全員の慰霊のため、
ここに碑を建立するものである。
 平成七年四月十六日 
出水市特攻碑顕彰会 松島空・豊橋空慰霊世話人会



出水海軍航空隊無名戦士墓





    
  海軍出水航空基地の歴史
海軍出水航空基地は、第三次海軍軍備拡張計画によって昭和12年に畑、山林、宅地など約百ヘクタールの土地の買収が始められ、昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まると高尾野方面にも拡張され、基地の面積は、3百ヘクタールにも及びました。昭和16年8月中旬に本格的な戦争準備が開始されると、第二航空戦隊の艦上攻撃機隊が真珠湾攻撃の準備のために訓練を行いました。この部隊は空母「蒼龍」・「飛龍」に収容され、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加しました。  その後は、練習航空隊の出水海軍航空隊が昭和18年4月1日にとして開隊発足しました。 昭和19年2月1日には、人吉航空隊出水分遣隊が飛行機の整備教育を行うために高尾野町下水流に置かれ、同年8月15日に第二出水海軍航空隊として独立開隊しました。また、10月には戦局の悪化に伴い出水で763航空隊(銀河部隊)が開隊しました。昭和20年3月には実戦部隊と共存していた訓練中の甲飛13期練習生は、光州に移動したため、出水基地は、戦闘部隊の基地として利用されるようになりました。 昭和20年2月に日本海軍は第五航空艦隊を編成し、出水には762航空隊の攻撃405・406飛行隊が配置され、昭和20年3月18日以降特別攻撃が始まり、散華された特攻隊員は200余名と言われています。 出水基地への空襲が始まったのは昭和20年3月18日、大川内地区の上空から侵入したグラマンによって飛行場施設や兵舎に甚大な被害を受けました。4月17・18日には爆撃機による攻撃で格納庫・滑走路などに致命的な損害を受け、付近の民家も被爆し、多数の死者を出しました。同月21・22日には油脂爆弾・時限爆弾の攻撃により、基地は壊滅的な被害を受け、その後も空襲は続きましたが、8月1日の出水アルコール工場の爆撃を最後にアメリカ軍の空襲は終わりました。

         
 基地への空襲と当時の基地の状況   基地主要設備エリアの航空写真  


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。




                                 つづく







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