近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
42日目。少し雲がありますが大丈夫でしょう。本日も元気に出発です。

本日最初に訪れたのは、知覧武家屋敷群です。


知覧武家屋敷庭園
徳川幕府の天下統一は、一国一城の制度を厳守させることにありました。
そこで薩摩藩は、鶴丸城を中心として102(のち113)の外城をおきました。外城は城ではなく、旧城の麓に郷士族の集落をつくり、「人をもって城とする」軍事行政上の拠点でありました。
知覧麓の整然とした縦横の道路は、第18代知覧領主島津久峯公の時代に造られたもので、領主の御仮屋(居宅)を中心に防備を兼ねた城塁型の区画となっています。
重要伝統的建造物群保存地区
武家屋敷庭園群は1750年前後に造られました。主屋と庭園とがよく調和し、石垣の一つの庭園を形成しています。上郡地区18.6ヘクタールは、藩政時代のたたずまいを今に残しており、昭和56年11月に重要伝統的建造物群保存地区として、国の選定をうけました。全国では17番目、九州では2番目の選定となります。
知覧武家屋敷庭園「名勝」に指定
庭園が名勝として国の文化財に指定されたことについて、文化庁は薩摩藩だけにある郷の麓にあること、いずれも江戸時代中期の作庭で、それぞれ優れた意匠で構成されていること。その手法は琉球の庭園と相通じるものがあることなどをあげ、庭園文化の伝統を知るうえでも、貴重なものと説明しています。昭和56年2月に7庭園が名勝指定になっています。鹿児島県では、昭和33年島津氏の別邸である磯庭園についで2番目の名勝指定となっています。 -案内板より


まだ時間が早いからか、誰も居ません。

綺麗な石垣とよく手入れされた生垣を楽しみながら歩きます。




真っ直ぐな道が筋違いになり、茅葺屋根の家がありました。


知覧型二ツ家(小棟おき二ツ家)
鹿児島に独特だといわれる二ツ家の中で、特に知覧だけにみられる二ツ家は、二つの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りです。民家建築文化史の上からも、貴重なものとされています。
居住用のオモテと台所のあるナカエの建物が、別棟となっている分棟式民家は、生活上不便が多く、次第に近付けるようになったのです。
知覧型二ツ家は、その分棟式の建物であるオモテとナカエが合体したもので、知覧大工によって創作された知覧独特の知覧町の建築文化であります。 -案内板より

茅葺に椰子の木が面白い

並列の建物をずらして繋げたような作りでした。


(クリックで拡大)
国選定重要伝統的建造物群保存地区
江戸時出、薩摩藩は藩内を百十三の外城(郷)と呼ばれる行政区画に分け藩内を治めました。
外城では、行政庁である御仮屋を中心として麓と呼ばれる武士団の居住区があり、さらに町屋・村落と続いていました。
知覧もこの麓の一つで、御仮屋の前には城馬場が通り、これに直行して本馬場が通されています。
馬場とは大路をいい、この馬場を挟んで麓の武家屋敷が形成され、随所に小路が配されています。
知覧麓が今にみられるような姿に整備されたのは、十八世紀の中頃であると伝わっています。
伝統的建造物群保存地区は、本馬場を中心とした東西900メートル、南北約200メートルの範囲です。
屈折する道路に沿い、石垣と生垣を連ねて屋敷地を区画し、道路から後退して、腕木門や石柱門を開く姿は優れた景観を見せています。
主屋と馬場との間は枯山水様式などの庭園が造られ、これらの庭園のうち、特に価値のあるものは「知覧麓庭園」として国の文化財として指定されています。
知覧伝統的建造物群保存地区は、鹿児島県に残る麓の代表的なもので旧観を良く伝えています。 -案内板より
つづく
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