近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
「くも合戦」の標識。子供の頃にした「ジョロウグモの相撲」かな。

鹿児島神宮からめし屋を探していると隣街へ。コンビニでめし屋の情報収集。

天天有(七徳会 大井病院の近く)
裏通りにある店。コンビニの方は「老舗」と言われたが、改装したのかな。
見た目綺麗な店でした。注文時おばちゃんが水か茶か聞いてくれます。
ソコソコの入りだったが、そんなに待たずに着丼。あっさりとしたトンコツ
スープは嫌な臭みなく丁寧な仕事ぶりが感じられる。独特なカエシは醤油と
味噌かな。塩分は強め。持ち上げの悪い中太波麺はツルモチで中々旨い。
この麺だからスープの味を濃くしているのかな。茹でモヤシに小さ目で濃い
味のバラチャーシューが3枚のる。全体的に「+ごはん」のラーメンだな。

ラーメン大

適度に満足して向かったのは、鹿児島空港北西の高台「上床公園」です。

「十三塚原海軍特攻之碑」

碑の見つめる先は、

十三塚原(現 鹿児島空港の一部)第二国分海軍航空基地跡です。

国分海軍航空基地は、昭和19年に出水航空隊の分遣隊として開設。
その後、第一国分基地に続き、第二を設営、国分航空隊として独立。

20年4月に国分航空隊は香川県観音寺基地へ移転し、国分基地は、
特攻基地に転換され、第一国分基地から241名が、第二国分基地からは
186名が特別攻撃により散華しました。


零戦のプロペラ (左)
零戦は正式には零式艦上戦闘機といい、旧日本海軍では零式艦戦(れいしきかんせん)または零戦(れいせん)と略称したが、アメリカ軍が「ゼロファイター」と呼称していたことから、戦後日本でも一般に「ゼロ戦」と呼ばれるようになった。
太平洋戦争緒戦における旧日本海軍航空兵力の主役であり、航続距離と空中戦での軽快な運動性は当時の各国戦闘機を大きく上回っていた。
展示されているプロペラは、戦後二十数年を経て海底から引き揚げられたものである。
「零式」とは皇紀2600年に兵器として採用されたことを意味している。
また「艦上戦闘機」は地上基地だけではなく、航空母艦で発着可能な戦闘機を意味している。
-案内板より
説明 (右)
展示してあるコンクリート破片は第二国分基地滑走路の一部です 昭和十八年から二十年二月まで第二国分基地(旧十三塚原海軍航空隊)では特攻機の発進基地として軍民一体となって急造の滑走路を造ることとなり県下各地から勤労動員の男女学生、生徒などの血と汗と涙の突貫工事によって特攻機発進の飛行場を完成させたのです 水の乏しい高台でのこと コンクリートを練るのに迫間の川の水を一升びんに汲み各自四五本づつ背負い三粁もある坂道を運んだと当時を知る人は語っています そして五十年の歳月は流れ もの言わぬコンクリートは「平和の尊さ」をいま私たちに語りかけています 平成九年四月 溝辺町特攻碑保存委員会
-案内板より



全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。
つづく
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