~西へ~(264) 35日目⑦ 平和台公園 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


神武天皇が東征まで過ごされた天皇の宮の跡と伝えられている、
「皇宮神社」から北へ数100mの平和台公園にやってきました。

 

階段を上ると駐車場に観光バス。嫌な予感がしますが、
「八紘之基柱(八紘一宇の塔)」を目指します。


八紘之基柱(八紘一宇の塔)



 使われていない手水舎

        

昭和十五年(1940)の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、宮崎
県も「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、当時の知事相川勝六
(奉祝会会長も兼任)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る
事を提案し、実行に移すことになります。

        

この塔を設計する彫刻家を公募。日名子実三氏が名乗りを上げ、
「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と申し出た。
相川知事も熱心さと彫刻家としての名声から、条件を付け了承しました。

        

「何ヶ月間か宮崎県内を巡り、その風物に触れて構想を練ってほしい」と
いう知事の注文に日名子は県内を廻り、宮崎神宮に参拝した際、御幣を
見て閃き、これに盾を組み合わせたデザインにしたといいます。

   

敗戦後の昭和二十一年(1946)に占領軍(GHQ)の命令により、「八紘一宇」の
碑文と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去されました。
塔内部の奉安庫に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去
・処分の対象となったが、県職員によって密かに運び出され、宮崎神宮の
倉庫内に隠されたという。

        
   県立平和台公園
 この公園は紀元2600年記念事業として県奉祝会が中心となり、県内はもとより広く国内外の有志の協賛をえて“八紘之基柱(あめつちのもとはしら)”の建設と広場2,600坪(8,580㎡)の造成を行ない、昭和15年11月25日に完成した。
 この台地は、神武天皇ご東征当時の宮居の跡といわれる“皇宮屋(こぐや)”の北部に位置し、海抜60m、下北方古墳群に囲まれている。台上の塔は、高さ36.4mで国内各地をはじめ当時世界各地に在住した日本人団体及び友好諸国から寄せられた切石1,789個を含む石材8,345立米で築かれ、作業員は奉仕団を含め延べ66,500人、総工費67万円を費やしている。
 塔は日名子実三氏の設計になり、外形は神事に用いるご幣を象徴しており、左に向って荒御魂(あらみたま・武人)、奇御魂(くしみたま・漁人)、幸御魂(さちみたま・農人)、和御魂(にぎみたま・工人)の四像を配し、昔の生活風俗をしのばせている。
 正面には、秩父宮雍仁親王殿下の真筆による“八紘一宇”の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれているが、終戦の昭和20年8月にはその精神が戦争目的に利用されたとして削除され“荒御魂”像もまた武力を象徴するものとして取り除かれ、その後塔は“平和の塔”と呼ばれるようになった。
 しかし、昭和32年4月9日に都市公園の決定をうけて公園整備が進むにつれ、美術工芸品としての塔の完全復元と保存の機運が台頭し、37年10月5日に“荒御魂”像が、40年1月31日には“八紘一宇”の文字が復元された。
 また、37年3月31日に、はにわ館が設置され39年のオリンピック東京大会の際は、国内聖火リレー第二コースの起点に選ばれ、9月9日この地に運ばれた聖火は翌10日県民歓送のうちに東京への第一歩をふみ出した。
 これが機縁となり、オリンピックの主会場であった東京都の日比谷公園と姉妹公園の縁を結んでいる。
 なお、県立都市公園としては、昭和35年度から45年度まで数次にわたる年次整備計画に基づき、県・市の憩の場として拡充整備をすすめ、神話の国みやざきを象徴するにふさわしい姿を整えるにいたっている。」
   昭和46年3月31日   宮崎県知事 黒木博  -碑文より




                              つづく







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