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「高知縣護國神社」
境内に建立されている慰霊顕彰碑の幾つか載せます。


歩兵第百四十四連隊 ビルマ方面「戰友の塔」(左)
碑文
歩兵第44聯隊は大東亜戦争に於て南海支隊の主力となり緒戦はグアム島を更に長駆ラバウルを占領 ついでニューギニア島ポートモレスビー攻略作戦の死闘を経てビルマに転進 マユ半島の要域を確保 バセイン河以西の防衛並びに警備 トングー モーテ街道の苦闘など山岳河川の悪条件下 圧倒的に優勢な敵の兵力物量に押されながらも祖国のため勇戦奮闘を繰返し幾多の戦友が祖国の華と散れり
ああ尊き友の霊ぞ忘れ得じ 時は徒に過ぎ行けども パコタ ジャングルの雨の情景と共に雄姿を慕い 懐かしむの念痛切なり
我が国今日の繁栄の礎は諸士殉国の賜と心に刻み 悲惨なる戦争は再び繰り返すまじと期するものなり
ここに諸霊の高き誉れを讃え永久に眠り安かれと祈りつつ霊名を納めその偉勲を後世に伝えんとする
昭和54年12月8日 歩兵第44聯隊ビルマ会
「騎兵戦友の塔」騎兵第十一連隊解散之地(右)
碑文
騎兵第11聯隊は明治29年第11師団の新設に伴い四国の健児を以て香川県善通寺に創設せられ日露戦役を始め累次の戦役事変に従事し昭和12年支那事変起こるや上海付近の戦場に参加したる後翌13年満州に転進し東部満ソ国境警備に任ず他方騎兵第11聯隊留守隊に於て昭和14年新設せる騎兵第40聯隊は中支戦線に又昭和16年編成せる騎兵第55聯隊は大東亜戦争勃発に依りビルマ並びにニューギニア方面の戦線に転戦し其の他騎兵第11聯隊及び留守隊出身の多くの騎兵は各種の部隊に加わり広大なる戦域に亘り決死敢闘第31軍司令小畑英良大将第20師団長片岡中将以下多数の将兵壮烈なる戦死を遂げ国難に殉ぜり 然るに大東亜戦争は力戦4年に及ぶも戦局好転せず本土愈々危急を告くるに至るや第11師団は本土決戦に備えて昭和20年4月長駆四国に転用せられ郷土防衛の為土佐湾沿岸に展開し鉄壁の堅陣を築いて来敵撃滅に専念する聯隊は挺進聯隊に改編して兵力を増強し五台山周辺地域に於て戦闘配備を完了し烈々たる闘志を以て一意決戦準備に邁進中図らずも終戦の大詔を拝し万魁の血涙を呑んで矛を収め9月7日復員解散し栄誉ある50年の歴史を閉ず 不幸大東亜戦争には敗れたりと雖も累次の戦役事変に於て至誠一貫尽忠報国の道を践める将兵の心意気と足跡とは毫も其の光を失うものにあらざるを信ず 茲に騎兵第11聯隊が栄光と波瀾の歴史を閉じたる意義深き解散の地に碑を建て聯隊の最後を偲び永く之を記念すると共に一死国難に殉じ祖国の平和と繁栄の尊き礎となれる戦歿英霊に崇敬慰霊の赤誠を挙げ其の遺族と日本の繁栄並に世界平和を祈念するものなり 騎兵第11聯隊会会長 高原 孝 撰
昭和53年5月吉日 騎兵第11聯隊会 建立

満州開拓民殉難之碑(中)
昭和8年、満蒙開拓のため、高知県からも6,108人が故郷を後に満州へと移住した。 人々は苦難に耐えながらも不毛の荒野に理想郷を建設するため必死だった。
しかし、敗戦の混乱により家族や友人とは生別や死別するなど、悲惨の限りをつくし、約2千人余りの人が犠牲となった。
無事生還した人々が開拓民自興会を組織し、日本に帰れぬまま亡くなった同胞を偲び、その偉業顕彰と慰霊のために建立された。
昭和31年4月15日建立
ニューギニア方面「戦友の塔」(右)
碑文
大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及びその周辺に祖国防衛のため挺進し海行かば水漬く屍山行かば草むす屍と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
嗚呼友の霊何処にぞ
戦終り時移り此処に二十幾星霜今ぞ群霊懐しの故郷土佐に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる吾等 亡き友の昔日を偲び御霊よ久遠に安かれと嶺北先古の清き流れに淨め磨かれた不変の石にこの祈願を刻しやがては同じ石下に 吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して此処にこれを建てる
高知県ニューギニア会 1967年10月

独立歩兵第四百十二大隊「慰霊碑」 (右)
独立歩兵第412大隊(操第6470部隊)は 昭和19年7月 高知県歩兵第144聯隊補充隊に於て編成され 独立混成第62旅団(操兵団)の隷下に入り淅閩作戦に参加 不眠不休敵の堅塁を突破して 10月には要衝福州を神速攻略し赫々たる武勲を樹てた 続いて 数字の激戦を交えつつ福州地区防衛の任を全うすると共に 此処を墳墓の地と定めて 昼夜を分かたず米軍迎撃の猛訓練と陣地構築に没頭した 図らずも 昭和20年5月操兵団の上海地区終結を命ぜられるや 陸路一部は海路を 的中突破2か月 見事にこれを達成した 次いで休む間もなく桐廬分水作戦に従い 銭塘江流域に於て奮戦中 8月15日終戦を迎える
惟えばこの間 ひたすら祖国の為にと死力を尽くして勇戦奮闘した130有余の戦友が惜しくも国に殉じた 尊い極みである
ここに護国の英霊の不滅の偉勲を讃え 御霊の永えに安らかならんことを祈ってこれを建てる
昭和60年11月 独立歩兵第412大隊戦友会

「雄飛」予科練之碑(左)
碑文
海軍飛行予科練習生制度は時代の要請に応えて昭和5年に創設され同20年戦争終結までの僅々15年余に過ぎない足跡であったがこの15歳前後の少年達に求められたものは搭乗員としての基礎教育と人間形成であったそのため鉄石の訓練にも良く耐えて自らを育てていった そして日中戦争及び太平洋戦争には名実共に海軍航空戦力の中核として戦い未曾有の国難に直面するや神風特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当り攻撃を敢行し愛する祖国と同胞の安泰のために短い青春を潔く捧げ名をも報いも求めず散華していったのであるこの崇高なる献身を忘れる事なく永遠の世界平和を願い今後再び戦争の惨禍を繰り返えさないことを強く望み戦後40余年を経てともすれば歴史の片隅に埋もれ風化しつつある予科練同窓の遺徳を後世に伝承するためこの碑を建つ
昭和63年10月2日 予科練雄飛会高知県人会
シベリア 満蒙方面抑留「戦没者慰霊碑」(右)
碑文
昭和30年8月9日未明突如にして約150万のソ連軍は空陸より満州国に進攻して来た これに対し 関東軍は装備貧弱な60数万であった 当時日ソ間には中立条約が締結されていて其の有効期間は余すところ8か月であった 米英中その他殆ど全世界を敵として4年間戦った日本は遂に8月15日ポツダム宣言を受諾し軍隊は無条件降伏を余儀なくされた そのため日本軍はソ連軍による武装解除を受けたのである 満蒙並びに樺太 千島 北鮮居住の日本人はソ連兵の言語に絶する残虐非道な暴行を受け そのため自殺 或いは殺害された者は数知れない そして6万有余の日本兵と一部民間人はソ連領に強制連行された 入ソ後は飢餓と酷寒にさいなまれつつ森林伐採 鉄道敷設 炭鉱 土建労働等に酷使され 10万以上の尊い人命がシベリアの広野に望郷の想ひも空しく万感の恨みをのんで仆れた死亡率は15%を超えたのである その中には本県出身者も数百名含まれて居り 誰一人詣でる人なく悲憤の涙を呑み国難に殉じた同郷の方々の死を衷心より悼み 茲に同志相図って慰霊碑を建立し 永遠に御霊安かれと弔うものである
昭和60年6月16日 高知県ダモイ会建立
「安らけく アジアの眞中に埋まりて 國の興りを しばし待て君」

(左から)「烈士殉難碑」堺事件
仏兵を射殺してしまい処刑された11名の碑
戦歿者慰霊之碑「硫黄島」
碑文
1945年2月16日栗林兵団約2万1千は米艦船8百余隻に支援せられたる上陸軍6万1千を迎撃し 昼夜別なき砲爆撃下「決死」「敢闘」を合言葉とし奮戦苦闘せしも 弾尽き水涸れ3月17日の訣別電報を最後に同月26日決戦を敢行せり 而も尚延べ18粁に及ぶ焦熱の地下壕に籠り抗戦を続くること3ヶ月遂に 6月に至りて玉砕す 米軍の死傷2万8千余 第2次大戦史上攻撃軍の被害防御軍のそれを上回りたるは硫黄島の戦いのみなるを見るも その激闘推して知るべし
この戦ひに散華せられたる本県戦歿者慰霊の為 島に眠りたりし遺品を納め 島の砂を用いてこの碑を建つ
これ遺族及び県支部会員並びに県民の寄進を以ってす
1979年1月 硫黄島協会高知県支部
「慰霊碑」 双山会
元中支那派遣軍百田部隊転属部隊 昭和51年5月2日
フィリッピン戦役「戦友の塔」
碑文
きらめく南十字星 紺碧の海 椰子の葉かげ 戦いなかりせばまさに一幅の絵画なりしものを 壮絶といわんか 悲惨というか 彼我の戦力甚しく較差大にして 戦友多数散り逝きし 嗚呼 恨み深し 南冥遙か フィリッピン
時は流れて茲に33星霜希有にいも一生を得、帰還しえた吾等独立歩兵第184大隊有志相依り 亡き戦友の功を追悼顕彰 将亦御遺族、些かの慰めなれかしを祈る
合掌
昭和52年12月吉日 建立
独立歩兵第184大隊戦友会 協力者 水田早苗
(右後)南海忠烈碑銘


憲兵戦友之塔(左)
碑文
明治天皇におかれては軍人を軍紀厳正国民の範とすべく監軍護法を使命とする憲兵科を明治14年に制定せられた 憲兵は聖慮を感佩して軍の儀表となり皇軍の健全?護に至誠献身せり 吾人の高知県に於ては明治25年衆議院議員総選挙に於て自由民権を唱へた自由党々首土佐の板垣退助と政権争奪に生じた騒乱鎮圧に出動せし憲兵が公平な処置をした為県史に残る「委細の様子は憲兵さんが知っちょる」の合言葉流布せられ県民より信頼敬愛せられた 日露の大戦に於ては各国新聞記者より占領地の安寧秩序良好略奪女子の暴行等無きは日本憲兵の活躍によるものなりと賞賛せられる 大東亜戦争に於ては広大な戦線に軍と戦火を共にし軍時警察情報の蒐集防諜の重要任務を担当し占領地の行政民則の独立指導治安確保に尽力しその真価を発揮せり 然るに終戦の大詔を拝し無剣の日本軍に勝者専断偽装裁判による憂国忠烈の同志非命に仆れしは痛恨の極みなり 戦後星霜流れて36年高知の憲友発起して戦陣に殉国された憲兵烈士の英霊を顕彰し併せて壮士の時代に至誠奉公した全国元憲兵同志の鎮魂の場とすべく塔石を建て祖国永遠の礎石たらん事を誓ふものである
元高知憲兵分隊所属陸軍省兵務局防諜班勤務 ◆撰
昭和56年11月吉日 高知県憲兵戦友の塔設立委員会 建立
歩兵第六十二連隊第三大隊 戦友之塔(右)
碑文
歩兵第62聯隊第3大隊は昭和13年第21師団の創設に伴い 高知歩兵第64連隊において 主として高知 一部香川愛媛各県の出身者で編成され 逐次 青森岩手富山石川長野岐阜等の出身者で充足されるにいたれり
昭和13年9月 中国に上陸し北支中支に転戦すること3年有余 各作戦に偉勲を樹て 大東亜戦争に突入するや 第2次バタアン攻略戦に参加 のちビサヤ諸島の粛正作戦に任じ 昭和17年末仏印に移動し ビルマ作戦の陽動作戦に 或いは昭和19年仏印国境線を突破し 長躯広西省に進攻し 大陸一貫連絡路打通の成功に寄与する等 幾多の作戦において抜群の戦果をあげたり
昭和20年8月15日終戦の大詔渙発せられ 祖国日本の勝利を信ぜし将兵は万紏の涙をのみ 翌年4月故国に復員せり
惟えば ぬかるみと黄塵万丈の北中支 猛暑瘴癘の南方地域において 凄惨可烈の戦闘に臨み 常に勇戦敢闘せしも 大義に行き 殉国の魂と化せし亡き戦友を偲ぶとき 断腸の思いに胸迫るものあり
今 大隊誕生の地高知 ここ護國神社の境内に戦友の塔を建設し 偉勲をたて壮烈なる戦死を遂げられし戦友の尊名を刻せし霊板を塔座に納めその御霊の永遠にやすかれと祈り 併せて大隊の勲をたたえんとするものなり
昭和56年10月吉日 歩兵第62連隊第3大隊戦友会


歩兵第二百三十六聯隊(鯨部隊)戰歿者慰霊塔(左)
碑文
歩兵第236聯隊(鯨6884部隊)は 昭和14年6月 第40師団(善通寺師管 鯨兵団)の編成下令に伴い 高知県朝倉の歩兵第44聯隊(第3大隊は丸亀の歩兵第12聯隊)において編成された
同年10月9日坂出港出帆征途に就き 中支大冶県城附近の警備に任じたが 第1次及び第2次九宮山 陸水宣品 予南 第一次長沙の各作戦に参加勇戦し また一部をもって漢口市内の警備を担当した
一六年末太平洋戦争勃発するや 第二次長沙 淅◆の両作戦に勇名を馳せ 17年8月 18年7月長安地区に移駐 火別山 江北殲滅 江南地区殲滅 江東地区反撃 常徳殲滅の各作戦に参加し 特に江南殲滅作戦では華々しい戦果を挙げ 軍司令官の感状を授与された 19年4月湘桂作戦開始と共に まず赤山島を攻略し 益陽 寧郷 湘郷 金蘭寺を経て郷陽郊外に達し 更に長駆広西省に進出 桂林城の渡河攻撃を敢攻し 再度軍司令官の感状を授与される栄誉に輝いた 更に貴州省境に出た反転 南部與漢打通作戦に成功 南雄 中江 広東を経て台山県に至り 赤漢付近海岸線の防備に当った 20年6月反転北上を命ぜられ 三南作戦を実施しつつ◆州を経て三江口付近に達して終戦の大詔を拝し 南昌 九江 安廣 撫湖 南京に行軍を続け 21年5月上海から乗船 博多及び仙崎に上陸して復員を完結した 外征6年有余 常に師団の中核聯隊として赫々たる武勲を奉し 整斉たる軍紀を保持して有終の美を全うしえたのは 軍紀の下将兵団結の成果と言えようが この間敵弾に斃れ病魔に冒されて亡き◆に入った戦友は 実に2千柱を越すのであって 厳寒酷暑に耐え 峻谷嶮峰を克服し飢餓難苦を偲びつつ ひたすら祖国の悠久を信じ殉国の英霊となられた戦友の面影を偲ぶとき今尚熱涙胸に込み上げくるを禁じ得ず ここにその偉勲を讃えると共に 御霊永久にやすかれと祈りを込め
昭和58年10月 土佐鯨会有志一同
軍艦香椎顕彰之碑(右)
碑文
船団を護衛し帰国途次仏印キノン沖で米国機動艦隊の艦載機延300有余の反復攻撃を受け、船団は悉く撃沈最後に香椎は奮戦激闘するも中部と後部に魚雷命中爆発撃沈、司令官渋谷紫郎中将、艦長松村翠少将(南国市出身)以下力尽き軍艦と運命を共にせし者便乗者を含め1千余名、生存者は僅か17名に過ぎず、その死しても止まざる殉国の気魄は米軍をして心胆を寒からしめ、深く感銘を与え敢えて戦史に特筆せり、ここに顕彰の碑を建立し、高知県出身者33名の英霊の勇戦と武勲を讃え、祖国日本の興隆と永遠の平和を祈念する。
平成7年12月8日 高知県


「海軍之塔」
土佐海援隊坂本龍馬の勃勃たる海洋精神により日本海軍は創成されて軈て世界に類い無い大海軍にと発展 近代国家の国益に寄与する 爾来その歴史的終焉に至る77年の青史を余す所なく燦然と煌く先人の遺烈で飾う 就中先の大戦に散華 日本の繁栄と平和の礎となった戦没物故者の偉功を顕彰 その不滅の遺志と共に 昭和戦中戦後を通じ伝統を誇る海軍教育精神に一貫した 不撓の赤心を本塔に託し 以て世界恒久平和並びに全人類の幸福を祈念する後世代に澎湃よせる滄海の濤聲になぞらえ 未来永劫天空に聳立する
不朽の道標としてこれを建立する
平成4年5月27日 高知県海洋會會長 北村牛基
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。

高知県護国神社 御朱印
つづく
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