~西へ~(98)12日目① 山城国一宮 賀茂御祖神社(下鴨神社)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
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昨晩は、少し雨が降りましたが、12日目の朝起きると青空が見えました。

     
 史跡 賀茂御祖神社境内
賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命、玉依媛命の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭の事、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。
境内の糺の森は鴨川と高野川の三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。
社殿の造営は、「社記」に天武天皇6年(677)のこととされ、長元9年(1036)には、21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造替えで、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。
平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。
弘仁元年(810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の西北に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。
また、桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣でも盛んであった。
さらに、毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われ、この祭は「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭といえばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起源は、欽明天皇5年(545)に溯る。また、御蔭祭、騎射(流鏑馬)、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。
このたびこのような賀茂神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。
     昭和61年3月吉日
       文部省
       賀茂御祖神社   -案内板より



    

手水とり、本日最初の参拝「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の境内に入ります。

         

糺の森の中を真っ直ぐに延びる参道を清々しい気分で進むと、


 国歌「君が代」にうたわれた「さざれ石」
「さざれ石」とは、小さな石という意味です。火山の噴火により石灰岩が分離集積して凝固した岩石で、長野県の天然記念物になっている。日本各地には、子持ち石とか赤子石など石を神として祀る信仰がたくさんある。「さざれ石」は、年とともに成長し、岩となると信じられている神霊の宿る石です。「古今和歌集」には私たちの遠い祖先から信仰してきた生石(いきいし)伝説の「さざれ石」が詠まれており、国歌の原典となっている。
 下鴨神社にも「鴨の七不思議」のなかに「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」という伝承を式年遷宮の祭事に「石拾い」という神事がある。いずれも永遠の生命力と不思議な力を現している。 



木々の緑の中、美しい朱の楼門が。

     




賀茂御祖神社境内図









                             つづく









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