近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
台風の予想進路上になっていたので、沈殿もありうると考えて、
昨日本日と飯もそこそこに急ぎ回ってきました。

順調に熊野那智大社に到着です。

熊野那智大社は那智の滝を神とする自然崇拝からおこった社です。
社伝には、神武天皇が熊野灘から那智の海岸「にしきうら」に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのを見て、この大滝をさぐり当てられ、神としておまつりになった、とあるそうですが、神武東征以前から熊野の原住民が神としてまつっていたと考えるのが自然でしょう。
熊野那智大社の社殿は現在、那智の滝から離れた高台にありますが、かつては大滝の近くあったらしく(「那智経塚」の近くにかつての社殿があったと考えられています)、仁徳天皇5年(317年)に現在地に遷されたと伝えられます。
-み熊野ねっとWebより

毎年7月14日に行われる例大祭「扇祭(那智の火祭り)」では、熊野十二所権現が1年に1度、現在鎮座する場所からもともと鎮座していた那智の滝へ里帰りする神事が執り行なわれます。
-み熊野ねっとWebより


ご祭神は、
第一殿〜第五殿御祭神
第一殿(瀧宮):大己貴命
第二殿(證証殿):家津御子大神、国常立尊
第三殿(中御前):御子速玉大神
第四殿(西御前):熊野夫須美大神
第五殿(若宮):天照大神
第六殿(八社殿)御祭神
禅児宮:忍穂耳尊
聖宮:瓊々杵尊
児宮:彦火火出見尊
子守宮:鵜葺草葺不合命
一万宮・十万宮:国狭槌命、豊斟渟尊
米持金剛:泥土煮命
飛行夜叉:大戸道尊
勧請十五所:面足命 で、ございます。

熊野那智大社は、正面に五棟五殿、左に一棟八殿、併せて十三殿が「┏ 形」に配置されています。
正面向かって右手が第一殿で、左端が第五殿です。左側にあるのが八社相殿の第六殿。
地形的な制約のため本宮大社や速玉大社のように横一列には配置されず、また第一殿には大滝の神がまつられ、第二殿以下に熊野十二所権現がまつられています。
-み熊野ねっとWebより


那智は、熊野十二所権現に、大滝の神、飛瀧権現を合わせてまつるため、「熊野十三所権現」とも呼ばれます。)
また、熊野那智大社の主神は、正面向かって左から二番目の第四殿にまつられている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)で、結宮(むすびのみや)とも呼ばれ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同体とされます。-み熊野ねっとWebより


熊野那智大社社殿 八殿
重要文化財 平成7年12月26日
世界遺産 平成16年7月1日
指定理由 歴史的価値の高いもの
第一殿 瀧宮
第二殿 証誠殿
第三殿 中御前
第四殿 西御前
第五殿 若宮
第六殿 八社殿
御懸 彦社
鈴門・瑞垣
熊野那智大社は熊野三山の一つに数えられ中世以降は日本第一大霊験所・根本熊野三所権現として全国的に信仰された古社である。
社殿は東西横一列に配された第一殿から第五殿と、第五殿の正南方に並ぶ第六殿・御懸彦社からなる。
各社殿は瑞垣で仕切られており、各社殿の正面には鈴門が開かれている。
第一殿から第六殿が嘉永四年から七年(1854)の建立、御懸彦社は慶応三年(1867)の建立である。
社殿はその規模が大きく良質で彫刻をほとんど用いない等、配置や形式に特徴があり、全国の神社建築に影響を与えた熊野三山の社殿形式を伝えるものとして、我が国の神社建築史上貴重である。
鈴門及び瑞垣は境内の景観を構成する上で重要である。
文化庁
熊野那智大社
和歌山県教育委員会 -案内板より

熊野那智大社 千木


八咫烏(やたがらす)・御縣彦社(みあがたひこしゃ)
八咫烏(やたがらす)は熊野の神様のお使いである、三本足の烏です。
より良い方向へ導く、お導きの神様とされ、熊野那智大社の境内にある御縣彦社(みあがたひこしゃ)でお祀りされています。 -熊野那智大社公式Webより
八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている[2]。また、太陽の化身ともされる[3]。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており[2]、熊野のシンボルともされる[4]。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。 -wikipediaより
つづく
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