~西へ~(23)3日目⑥ 神倉神社Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                       近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


続いて訪れたのは、伝 熊野三山元宮、現 熊野速玉大社 摂社の神倉神社です。

          

神倉神社は、熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地です。天ノ磐盾という峻崖の上にあり、熊野古道中の古道といわれる五百数十段の仰ぎ見るような自然石の石段を登りつめた所に御神体のゴトビキ岩があります。
熊野速玉大社は、まだ社殿がない原始信仰、自然信仰時代の神倉山から、初めて真新しい社殿を麓に建てて神々を祀ったことから、この神倉神社に対して「新宮社」と呼ばれています。 -熊野速玉大社公式Webより


      
 橋の傍らに立つ標石、「下馬」標石は寛文12年(1672)銘のあるもので、黒雲母花崗斑岩製、高さ1.59メートル、幅43センチメートル、厚さ17センチ、同じ材質で地上高26センチメートル、幅80センチメートルの台石上に立っている。刻銘によれば、奥州は南部志和郡の人物が、子孫繁栄を祈念して熊野参詣7度を達成したことを記念したものとあり、奥州の熊野信仰を今日に伝えている。 
-新宮市教育委員会・新宮市文化財審議会編[1990: 33]より



神橋を渡り、境内へ立ち入ると正面に鎮座しますは、


                       
猿田彦神社
神倉三宝荒神社
 御由緒
神倉山麓には、天孫降臨に『導きの神』のご神徳が高く、『天狗さま』として親しまれた猿田彦命の神社が、明治の御代まで鎮座していました。
また、三宝荒神社(火産霊神・誉田別命)は立里(高野山)にあり、願望成就・商売繁盛のご神徳が高い。
昭和56年、氏子有志のご協力で、社殿・鳥居・境内整備・参道などの諸工事を施工して、両神社をご奉斎した次第です。
 猿田彦神社 三宝荒神社 敬仰会
 熊野速玉大社          -案内板より



天磐盾(あめのいわたて)
 神武天皇紀(日本書紀)には戊午年(ぼごのとし/紀元前三年)六月に狭野(佐野)を越えて「熊野神邑(くまのみわのむら)に到り、旦(すなわち)天磐盾(あめのいわたて)に登りて」と記しています。
 紀元二千六百五十年(平成二年)を奉祝して神武天皇聖蹟である熊野神邑(新宮の古称)の天磐盾(神倉山)の顕彰碑を神倉神社奉賛会が奉献し、文字は鈴木江邨氏が謹書されています。
 平成二年二月十一日 建国記念の日
   熊野速玉大社摂社 神倉神社  -案内板より


     
 神倉神社
御祭神 高倉下命 天照大神
大祭 二月六日夜
 御灯祭りと言う古儀の特殊神事として
 名高い。白装束に身を固めた祈祷者が神火を
 松明にうけて急坂(源頼朝公御寄進の鎌倉式石段)を馳下る壮観な火祭りである。
御由緒
 熊野権現として有名な熊野速玉大社の
 摂社である。熊野三山(速玉・那智・本宮)の
 主神降臨の霊地、熊野信仰の根本とし申すべき
 霊所である。
 御祭神高倉下命は建国の功臣、熊野三党
 (宇井・鈴木・榎本)の祖として知られ、
 農業漁業の守護神として御神徳が高い。  -案内板より


   

鳥居をくぐり、自然石を組み合わせて積み重ねた
「鎌倉積み」の急峻な石段を上ります。
 石段は538段を算し、自然石(花崗岩)を組み合わせて築かれたもので、幅は平均約4メートル、高さと奥行きは一定ではないが、おおよそ高さ25センチメートル、奥行きは30から40センチメートルである。一般には建久4年(1193年)に源頼朝が寄進したと伝えられる。 -新宮市教育委員会・新宮市文化財審議会編[1990: 30]より



石段の途中右手に鎮座する火神社(左)と中ノ地蔵堂(右)
この先は、段々と傾斜が緩くなる。





                             つづく







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