~北へ~(456)82日目④ 恵林寺Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
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武田信玄公が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派の古刹、元徳2年(1330)、
夢窓国師によって開かれた、恵林寺にきております。



三門をくぐって正面に見えるのが甲州市指定文化財の開山堂です。



夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、
末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されています。



木造 夢窓国師坐像 一軀
鎌倉時代も終焉に近い元徳2年(1330)9月、恵林寺を開いた夢窓国師の木彫寄木造り坐像である。像高72センチ、胴部は木造であるが、頭部のみは塑像、玉眼入りという非常に珍しいもので、全体が布着せ胡粉地に彩色を施している。  
-公式Webより





 
 開山堂側から見た三門               仏舎利宝塔



開山堂横の門をくぐり、庫裡へ。

 
  武田信玄公訓言 石碑
「凡そ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す。
その故は、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故。
たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり。」 (甲斐恵林寺:三光書)およそ軍勝五分を以って上と為し、七分を中となし、十分を以って下と為す。
その故は、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕りをするが故。
たとえ戦に十分の勝を得るとも、驕りを生ずれば次には必ず敗るるものなり。
すべて戦に限らず世の中のことこの心がけ肝要なり。」 甲斐恵林寺 三光書 
-石碑より
 

 
乾徳山恵林禅寺の沿革
 当山は臨済宗妙心寺派。往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。草創は鎌倉時代末期の元徳2年(西暦1330)当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道經)が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸ほ禅院としたのに始まる。
 越えて、戦国時代、甲斐国主、武田信玄の尊崇を受けた快川国師(紹喜)の入山で寺勢を高め永禄7年(1564)、信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。天正4年(1576)4月、武田勝頼は父信玄の3年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修する。同10年(1582)3月、勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡する。同4月3日、織田信長軍の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰燼に帰する中で、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら凉し」と遺偈、従容として火定する。
 本能寺の変後、徳川家康の手により旧観に復し、また徳川五代将軍綱吉時代、甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、同甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展、吉保夫妻の菩提寺にもなる。庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。
重要文化財
 太刀(銘来国長) 一口 鎌倉時代
 短刀(銘備州長船倫光) 一口 南北朝時代
 恵林寺四脚門(中門・赤門) 一棟 桃山時代
国指定名勝
 恵林寺庭園 鎌倉時代
山梨県指定文化財
 夢窓国師坐像 一躯 鎌倉時代
 和漢朗詠集 一巻 室町時代
 恵林寺文書五点 五点 室町時代
 渡唐天神画像 一幅 室町時代
 武田晴信の墓 江戸時代
 不動明王とニ童子(築) 三枚 室町時代
 恵林寺三門 一棟 室町時代
塩山市指定文化財(カッコ内は時代)
鎧不動尊立像・釈尊像・軍配団扇・当世具足一式・食籠輪袈裟・軍神鞍・鎧・孫子の旗・諏訪神号旗・恵林寺大鋸・芦葉達磨図・不動明王図・観音像図・夢窓国師像図・快川国師像図・未宗禅師像図・五大尊十二天像図・面壁達磨像図(以上室町時代)
恵林寺文書八点(室町~桃山時代)
養朴筆隻履達磨像図・探雪筆達磨像図・白隠筆達磨像図・武田信玄軍陣影・武田信玄画・仏□槃図(以上江戸時代)
  昭和六十一年二月 甲府市教育委員会   -案内板より
 





                              つづく







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