北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
さぁ、本日最後の地・上田城(信濃国小県郡上田)に到着です。
二の丸 北虎口から登城いたします。

上田城は、真田信之、あの真田幸村の父親であり、武田信玄公 家臣・
真田昌幸によって、天正11年(1583)に築城され、仙石忠政によって
寛永年間に再建築城されたものであります。
早くも見所、本丸土塁の「隅欠」です。


本丸土塁の隅欠(すみおとし)
上田城や藩主屋形(上田高校)の土塁、堀、城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られ、真田氏の頃から設けられていたものとされる。鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、城下町の鬼門に寺社を置いたりした。
上田城本丸の土塁は東北の角を切りこみ、やぐら2棟をその両脇に配置していた。堀や土塁の斜面が内側にへこんで見えるのはそのためである。
二の丸堀の東北の角は、かぎの手に折り曲げ、外側を「樹木屋敷」と呼ぶ林としていた。また、藩主屋形の土塁、土塀も隅欠をするなど、各所に鬼門を除ける強い意識がみられ、上田城の特徴のひとつである。-案内板より
隅欠を過ぎ、内堀沿いを進むと大手口「東虎口櫓門」に。

本丸南櫓(現存・移築)と東虎口櫓門(復元)
(画像には右上にチラッとしか映ってませんが北櫓も現存・移築です)

東虎口櫓門前の内堀 南側 北側
(現在、南側は空堀となっていますが、石樋があるので元は水が入っていたと考えられます)

真田石
大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田石に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
-説明板より

本丸東虎口(平成6年復元)
現在、本丸の東西虎口には3棟の櫓が残っています。
東虎口にある南北2棟の櫓は明治8年(1875)に民間に払い下げられ、上田城の北方、太郎山山麓の上田遊郭に移築されました。昭和16年(1941)には市内の建築業者から東京の料亭に転売されるという事態が起こりましたが、市民らにより上田城址保存会が結成され、2棟の櫓を買い戻しました。その後、戦局の悪化による中断をはさみながら同24年(1949)に現在地に復元。南櫓・北櫓と名付けられ、上田城跡のシンボルとして人々を迎えることになりました。昭和34年には、西櫓とともに長野県宝に指定されています。
また現在東虎口にある櫓門は、古写真等を根拠に平成5年度に復元したものです。-案内板より
本丸東虎口(大手口)を入るとすぐに「眞田神社」がございます。

某情報操作公共放送の番組の為、大変賑わっておりました。
しかし、悲しい事にとても神社に拝する姿勢・作法とは思えない人々ばかりでした。

明治に松平神社として建立された神社で、歴代城主が祀られております。

御祭神は、
真田昌幸公、真田信繁(幸村)公、
仙石政俊公、仙石政明公
松平忠周公、松平忠愛公、松平忠順公、松平忠済公、松平忠学公
松平忠固公、松平忠礼公 で、ございます。

拝殿 社号額 ご本殿(手前は真田井戸)
真田井戸(直径2m、深さは16.5m)
この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
-説明板より
つづく
