[沖縄 編(6)のつづき]
生憎の曇り空ですが、豊見城岳陵・海軍壕公園に。

首里王朝時代には、薩摩などからの船の入港を知らせる
「ヒバンムイ」があった丘です。
まずは、海軍戦没者慰霊之塔にて感謝、慰霊です。



「仁愛之碑」
碑文には、「大田實司令官」が「海軍次官」に宛てた
電文が刻まれてます。(電文 原文(PDF) 現代文(PDF))


旧海軍司令部壕の見学は、海軍壕公園ビジターセンターの2階入口から。

海軍壕公園ビジターセンターの2階内部


1階資料室(入口横の戦艦大和模型)
資料室には、沖縄戦の経過を紹介する写真やパネル、
日本軍の軍服と銃器、手製の槍、電文綴り(当時の通信記録)、
「旧海軍司令部壕」で発見された遺品などが展示されています。



「被害の全容」
沖縄戦の戦死者数はまだ不明である。軍人の戦死者数はほぼ正確であるが、沖縄県民の犠牲者数は推定でしかない。約15万人前後と推測されるが、これは日米両軍の正規軍人の2倍以上にのぼり、戦前の県人口約60万人の1/4にあたる。
戦争犠牲は人命だけではない。地上の文化財の9割以上が失われ、戸籍や地籍簿も消滅したため戦後の混乱がながく続いた。なによりも地獄の戦場で傷ついた沖縄県民の心の傷跡はいつまでも消えることはない。
(パネルより)
なにゆゑ沖縄の展示物には仕掛けが存在し罷り通るのか?一応「まだ不明である」と言い訳はされているが、約10万人と約15万人では、大きな開きがある。いずれにせよ大変な数であることは間違えないが、少しでも正確を期す事が大切ではないか。
広島原爆の被爆死亡者は、9万人ないし12万人とされており、東京大空襲(昭和25年3月10日)では、死者数が11万人以上という大量虐殺の事実も忘れてはならない。
沖縄だけが多大な被害を受けたわけではない。
(沖縄戦戦死者数考査ブログ→こちら)

では、司令部壕の中に入ります。
つづく