どうも、風呂の排水が悪い。
パイプの中を掃除してみたり、パイプユニッシュを流し込んでみたりするけれど、あまり改善しない。うーん。
風呂の排水に限らず健康でも何でもそうだけど、普段放ったらかしでうまく動いていたものが急にうまくいかなくなると、結構ブルーになる。
歯が痛くなって、歯が痛くないという状態のありがたみが分かる、そういうものですね。
破局的状況をむかえる前に、普段から少しずつ「雪かき仕事」をしておくのって、本当に大切なことだ。でも僕らはすぐに、そういう小さくて大切なことを忘れてしまって、気がつけばややこしい局面にずるずると持ち込まれてしまっている。今の日本なんて、まさにそれだ。
ちょっと話が大げさになった。
パイプユニッシュを今もう一度試してみているところだが、さてどうなるか。
偏狭な「愛国心」を語る人々が多くなった。
彼らの愛国心は、他民族を見下して、自らの優性を誇るというだけの幼稚なもので、本当に日本を愛しているならもっと尊敬される日本人であろうとするだろうにな、といつも不思議に思う。自分たちがかえって日本を貶める原因になっていることに、気付いているんだろうか?
ところで、新島襄のこんな言葉に出会った。
一人一人を愛するの説は大いに愛国よりは狭きに似たれども、人を愛するは、一国に限らず世界の人をも人と見なしてこれを愛せば、決して区域の狭き者にあらず。
『新島襄教育宗教論集』(岩波文庫) P298
ナショナリズムの危うさをまだ経験していないどころか、幕藩体制から近代国家へと「今からオールジャパンで列強に追いつこうぜ」と変わっていく明治というタフな時代に、これほどコスモポリタンな考え方をしていたというのはすごい。たぶん当時の人たちは、彼の言葉の意味がしっくりとは分からなかったのではないかと思う。
新島襄が福沢諭吉なんかに比べて今ひとつ評価されていないのは、時代の先を行き過ぎていたからじゃないかと思ったりする。まあ、福沢先生は圧倒的な影響力なので比べるのもアレだけど。
それはともかく、世界が連帯を諦めて分裂に向かいつつある21世紀の今こそ、この新島襄の言葉が意味を持つのではないか。国家として、集団としてとらえると気に食わないことも多いけれど、日本人も中国人も韓国人もロシア人もアメリカ人も、クリスチャンもムスリムも、結局は人一人なのだから。
彼らの愛国心は、他民族を見下して、自らの優性を誇るというだけの幼稚なもので、本当に日本を愛しているならもっと尊敬される日本人であろうとするだろうにな、といつも不思議に思う。自分たちがかえって日本を貶める原因になっていることに、気付いているんだろうか?
ところで、新島襄のこんな言葉に出会った。
一人一人を愛するの説は大いに愛国よりは狭きに似たれども、人を愛するは、一国に限らず世界の人をも人と見なしてこれを愛せば、決して区域の狭き者にあらず。
『新島襄教育宗教論集』(岩波文庫) P298
ナショナリズムの危うさをまだ経験していないどころか、幕藩体制から近代国家へと「今からオールジャパンで列強に追いつこうぜ」と変わっていく明治というタフな時代に、これほどコスモポリタンな考え方をしていたというのはすごい。たぶん当時の人たちは、彼の言葉の意味がしっくりとは分からなかったのではないかと思う。
新島襄が福沢諭吉なんかに比べて今ひとつ評価されていないのは、時代の先を行き過ぎていたからじゃないかと思ったりする。まあ、福沢先生は圧倒的な影響力なので比べるのもアレだけど。
それはともかく、世界が連帯を諦めて分裂に向かいつつある21世紀の今こそ、この新島襄の言葉が意味を持つのではないか。国家として、集団としてとらえると気に食わないことも多いけれど、日本人も中国人も韓国人もロシア人もアメリカ人も、クリスチャンもムスリムも、結局は人一人なのだから。
まっとうなものを食べて生きたい、と思う。
最近、食の安全性に対する関心が高まっているのを感じるけれど、実際世の中にはジャンクフードがあふれている。
よく、アメリカの食を不健康だと揶揄する人がいるけれど、日本のコンビニや外食産業もたいがいだ。どこまで本当か知らないが、マクドナルドとかローソンとか山崎パンとか、色んなヤバい話が聞こえてきたりもするし。でもまあ、そういうのは高度資本主義の大量生産型社会では仕方のないことなんだろう。
神経症的に気にするとキリがないから、ほどほどにしようとは思ってるんだけど(原理主義みたいなのは好きじゃないし)、これからはできるだけまっとうなものを食べるようにしたいな、と思う。
大量生産の工業製品的食品や、遠いところから運ばれてきたものはあんまり食べ過ぎないようにしよう、くらいのマイルドなスタンスで。
僕がいずれ淡路島を拠点にしたいと考えている理由のひとつに、この「食」というものがある。
淡路島は食料自給率が100パーセントを超えていて、ということはつまり鎖国してもしばらくは食っていけるということだ。わけのわからない食べ物を輸入しなくたって、品質の高い水産物や食肉や米や野菜も、それこそ島外に「輸出」して稼げるくらい生産されている。そう言えば、この島の食に惹かれて都会から移住する人の話もけっこう聞こえてくる。
島の中で人間のつながりをしっかり作れば、国家がどうなってもちゃんと生きていける、なんてのは言い過ぎかな。でもそういうのって、これからの時代すごく大事なことだと思うんだけど。
資本主義と適度に混ぜ合わせながら、ゴキゲンな交換経済を基盤に生きていけないものかなあ、なんて考えている。まずは僕が、しっかりとしたものを与えることのできる人間にならなきゃだな。
最近、食の安全性に対する関心が高まっているのを感じるけれど、実際世の中にはジャンクフードがあふれている。
よく、アメリカの食を不健康だと揶揄する人がいるけれど、日本のコンビニや外食産業もたいがいだ。どこまで本当か知らないが、マクドナルドとかローソンとか山崎パンとか、色んなヤバい話が聞こえてきたりもするし。でもまあ、そういうのは高度資本主義の大量生産型社会では仕方のないことなんだろう。
神経症的に気にするとキリがないから、ほどほどにしようとは思ってるんだけど(原理主義みたいなのは好きじゃないし)、これからはできるだけまっとうなものを食べるようにしたいな、と思う。
大量生産の工業製品的食品や、遠いところから運ばれてきたものはあんまり食べ過ぎないようにしよう、くらいのマイルドなスタンスで。
僕がいずれ淡路島を拠点にしたいと考えている理由のひとつに、この「食」というものがある。
淡路島は食料自給率が100パーセントを超えていて、ということはつまり鎖国してもしばらくは食っていけるということだ。わけのわからない食べ物を輸入しなくたって、品質の高い水産物や食肉や米や野菜も、それこそ島外に「輸出」して稼げるくらい生産されている。そう言えば、この島の食に惹かれて都会から移住する人の話もけっこう聞こえてくる。
島の中で人間のつながりをしっかり作れば、国家がどうなってもちゃんと生きていける、なんてのは言い過ぎかな。でもそういうのって、これからの時代すごく大事なことだと思うんだけど。
資本主義と適度に混ぜ合わせながら、ゴキゲンな交換経済を基盤に生きていけないものかなあ、なんて考えている。まずは僕が、しっかりとしたものを与えることのできる人間にならなきゃだな。
土曜日に青春18きっぷを使って岡山まで行ってきた。
旭川の土手の桜は満開。
どうもこれを見ないと、「春がきた」という気がしない。
岡山には生まれてから12歳までいたので、まあ故郷と言っていいんじゃないかと思う。
でも今では、岡山に親戚も、連絡を取って会える友人もいない。
祖父母も、小学校時代の親友も、ずいぶん前に死んでしまった。
だから故郷としての岡山は、僕にとってなんだか実体がなくて、言わば小学校時代のまま保存されている過去の記憶でしかない。博物館のジオラマ展示みたいな感じの。
オランダ通りの「だて」でカツ丼を食べて、天満屋からバスに乗って、小学校時代を過ごした場所に行ってみる。
実は去年から、毎年桃の花が咲く時期に訪れようと勝手に決めていて、今回も誰に会うではなく、ただかつて過ごした場所をぶらぶら歩き回った。小学校時代に遊んだ場所を歩いてみると、不思議とあの頃の思考回路がじわじわ復活してくる。でも僕自身は大きくなっているので、見えるものの縮尺がちょっとおかしくて、その歪みが本当に物理的に大きくなって生じたものなのか、精神的なものなのかよく分からなくなる。
これはちょっと不思議な感覚だ。
オオイヌノフグリやタンポポやホトケノザやカラスノエンドウや、そういう色んな野草があぜ道にもこもこ繁っているのを見て、ふと泣きそうになったりする。
それから、小高い丘の上にのぼって、桃の果樹園の花を眺める。
こんな風に一年に一度、自分の心の原風景を確認するというのもいいものだ。
深呼吸して春をいっぱいに吸い込んで、また日常に戻ろう。
そしてまた次にここを訪れるまでの一年を、いい一年にしよう。
旭川の土手の桜は満開。
どうもこれを見ないと、「春がきた」という気がしない。
岡山には生まれてから12歳までいたので、まあ故郷と言っていいんじゃないかと思う。
でも今では、岡山に親戚も、連絡を取って会える友人もいない。
祖父母も、小学校時代の親友も、ずいぶん前に死んでしまった。
だから故郷としての岡山は、僕にとってなんだか実体がなくて、言わば小学校時代のまま保存されている過去の記憶でしかない。博物館のジオラマ展示みたいな感じの。
オランダ通りの「だて」でカツ丼を食べて、天満屋からバスに乗って、小学校時代を過ごした場所に行ってみる。
実は去年から、毎年桃の花が咲く時期に訪れようと勝手に決めていて、今回も誰に会うではなく、ただかつて過ごした場所をぶらぶら歩き回った。小学校時代に遊んだ場所を歩いてみると、不思議とあの頃の思考回路がじわじわ復活してくる。でも僕自身は大きくなっているので、見えるものの縮尺がちょっとおかしくて、その歪みが本当に物理的に大きくなって生じたものなのか、精神的なものなのかよく分からなくなる。
これはちょっと不思議な感覚だ。
オオイヌノフグリやタンポポやホトケノザやカラスノエンドウや、そういう色んな野草があぜ道にもこもこ繁っているのを見て、ふと泣きそうになったりする。
それから、小高い丘の上にのぼって、桃の果樹園の花を眺める。
こんな風に一年に一度、自分の心の原風景を確認するというのもいいものだ。
深呼吸して春をいっぱいに吸い込んで、また日常に戻ろう。
そしてまた次にここを訪れるまでの一年を、いい一年にしよう。
いつの頃からか分からないけれど、本音礼賛主義というか、嘘は絶対ダメで、醜くてもリアルな方がいいんだという風潮がとても強くなっている気がする。
テレビでもよくヤラセ云々が大騒ぎになってますね(逆に芸能人が「すっぴん」を晒して喜ばれるのも)。
報道が嘘をつくのは論外だとしても、なんでもかんでも「嘘はダメ!」となる、さらには、物議を醸すようなことを放言して、「本当にそう思ってるんだから仕方ないじゃないか」と開き直るのって、ある種の幼児化なんじゃないかと思う(で、問題が大きくなると、「そんな意図はなかった。不快に思われたなら謝りたい」みたいにいい加減に謝罪してみる)。
ヘイトスピーチみたいなものも、たぶんそういうところから出てきている。
そういう身もふたもない本音と、真っ赤な嘘との間にあるグレーな「落としどころ」をきちんと把握している人こそが、成熟した大人なのではないかと思う。
別にみんながみんな成熟した大人になる必要はないけれど、「不適切な本音を晒して個人的な快感を得るのを一回我慢して、ちょっとだけ背伸びしてみる」ということを一人一人が試してみるだけで、世の中はもうちょっと居心地のいいものになるんじゃないかな。
テレビでもよくヤラセ云々が大騒ぎになってますね(逆に芸能人が「すっぴん」を晒して喜ばれるのも)。
報道が嘘をつくのは論外だとしても、なんでもかんでも「嘘はダメ!」となる、さらには、物議を醸すようなことを放言して、「本当にそう思ってるんだから仕方ないじゃないか」と開き直るのって、ある種の幼児化なんじゃないかと思う(で、問題が大きくなると、「そんな意図はなかった。不快に思われたなら謝りたい」みたいにいい加減に謝罪してみる)。
ヘイトスピーチみたいなものも、たぶんそういうところから出てきている。
そういう身もふたもない本音と、真っ赤な嘘との間にあるグレーな「落としどころ」をきちんと把握している人こそが、成熟した大人なのではないかと思う。
別にみんながみんな成熟した大人になる必要はないけれど、「不適切な本音を晒して個人的な快感を得るのを一回我慢して、ちょっとだけ背伸びしてみる」ということを一人一人が試してみるだけで、世の中はもうちょっと居心地のいいものになるんじゃないかな。

