皆さん 聞かはったぁ?
おいで
梅雨明けですってよ
大して雨降ってへんのに
てか どれが梅雨やったん?
滝汗
昔やったら雨乞いせなあかんとこやな
おばはん 雨乞いダンス踊りましょか
ニヒヒニヤニヤ
なんや暑っついし
ほんま 勘弁しとくれやす

キラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラキラ

ヨンウォンの使者たち

第 八 章  X 使者の復活

第  三  節

  D - 6

  甲1は拳で叩いて、石の床を確かめた。下に空間があるのは確かだった。甲21と甲2は、地獄から掻き集めてきた灯りで、暗黒の牢獄を明るく照らした。牢獄の内部を見に行っていた使者たちが、一人ずつ戻ってきた。甲3が初めに帰ってきた。

「誰もいなかった。近頃の時職や日職は、お利口さんばかりなんだな。しかし、何でこんなにも牢獄が
空っぽなんだ?」

  庁長も戻りながら言った。

「人間だった魂たちは、孤独の恐怖を知っているからさ。」

「既に死んでるから、孤独になったとしてこれ以上死ぬ事もないのに、不思議だよ。」

「この世に留まる時間が短くなった分、ミスも減ったしね。センター長がいつもネチネチ言うからな。」

  センター長が最後に戻ってきた。

「扉っぽいものもは無かった。床は破壊できそうか?」

  甲1が立ち上がりながら言った。

「大変だろうな?俺の力まで考慮された牢獄だからな。」

「甲1オッパ、本当に何か方法は無いの?扉が現れるのを待ってる時間は無いわ!」

  甲1が目を瞑って、足の裏で蝶の気を感じてみた。それから目を開けて言った。

「雷帝を信じて、ここに全力を注ぎ込まないと。」

「破壊は難しそうだって?」

「下にいるのが本当に蝶なら、俺のコントロールに従うはずだ。そしてそれが本当に俺の記憶なら、俺に戻ってこようとする強い本能があるはずだ。この基本原理を利用して蝶を引き寄せる、俺の所に。」

  甲1が、片膝をついて座った。それから上体を屈めて右手を石の床につけた。床の下に向かって念力を押し込んだ。少しづつ床が揺れ始めた。やがてその振動は、地震でも起こったかのように、次第に激しくなった。甲1の髪の毛全てがエネルギーを放出するかのように、真っ直ぐに立った。彼の手の甲に、青筋が浮き出た。そして首筋を伝って、顔にまで青筋が立った。体がバランスを保てないほど暗黒の牢獄が揺れたにもかかわらず、亀裂はおろか、土クズ一つ落ちていなかった。ここは本当に崩れない所だった。

  崩れない代わりに、石の床から黒い物がみるみるうちに上がってきた。巨大な黒い幕のようなものだった。見えているところはごく一部で、全体の形はよく分からなかった。大きな幕の一角が裂けた。自然に切り離れたのだ。それは直ぐに大きな蝶の形に変わって、羽ばたいた。他の角も、避けるように切り離れた。瞬く間に放たれた三匹の蝶は、吸い込まれるように庁長の腕に、甲2の肩に、センター長の背中に入って消えた。そこにあった傷跡も一緒に消えた。三人組が、同時に脚の力を失って、その場にへたり込んだ。

  まだ残っている巨大な幕が、大きさを縮小して形を変えた。それもまた、蝶だった。最後に残った蝶が、猛烈な勢いで、甲1の中に入っていった。まるで黒い雲が、真空の中に吸い込まれていくようだった。首筋にあった傷跡が消えた。それと同時に、彼の髪が、以前の濃い黒髪に染まっていった。暗黒の牢獄を揺るがした振動が、ピタリと止まった。甲1が目を開けた。

  蝶に保存されていたものは、ヨンファの一生についての彼らの記憶だけでは無かった。戦場は、この世とあの世の境界。そんな戦場の中で生まれ、その真っ只中で生き、そこで死んでいくはずだった1人の女。そんな彼女をあまりにも愛し過ぎた1人の死神の心の、そして、それを見守り続けた死神たちの罪悪感の記憶だった。

******

  ヨンファはいつも笑っていた。暖かい陽射しの下でも、照りつける陽射しの下でも、肌の奥まで切り裂かれるような冷たい風の中でも、彼女の微笑みは甲1に向かっていた。それで甲1も、明るく笑う表情を学んだ。ヨンファの肌は荒れて黒かった。髪も美しく飾ってはいなかった。弓を射る時、邪魔にならないように切ったり編んだりするのが精一杯だった。彼女の全身は、常に土埃にまみれていた。頬には弓の弦でついた傷跡があった。だが、これすら甲1の目には、ただ愛しいばかりに映った。髪飾りを渡された時もそうだった。

「残っている母の形見は殆どありません。お金になりそうな物は全部奪われて。これ一つを隠しておくのがやっとで……」

  ヨンファが甲1の手の上に、青銅の髪飾りを乗せた。

「これを何故、甲5使者に?」

「私はこれが似合う女性にはなれませんでした。いくら考えても、これが一番良く似合うのは、甲5使者様だと思います。私はあの方に、感謝することが沢山あるのです。幼い頃から私の安否を尋ねに来てくださったのは、あの方だけでしたから。来て下さる度に、私は生きる力を頂きました。そして、私の願いまで聞いて下さいましたから。何でもいいから恩返しがしたくて。」

「どんな願いだったんだ?」

  ヨンファは答えず、ただ笑っていた。彼女の目の前に答えはあったが、甲1は気づかなかった。この事は、そのまま甲5に伝えられた。そして今はもう見に行くことは出来ないが、ヨンファに対する愛情を込めて、自分の髪に挿した。とても気に入ったかんざしだった。

******** 

  雨は全く降らなかった。太陽だけが、強烈に大地を燃やしていた。地にへばりついて寄生していた雑草も、枯れ果てていった。かろうじて生き残った草も、乾いた土埃にまみれて、枯れ草と見分けがつかなかった。ヨンファはその上に倒れていた。土埃が彼女の体を覆いながら、姿を隠していった。

「も、もう少しだけ…、もう少しだけ踏ん張れば、日が落ちる……」

  遥か彼方に舞い降りるカラスの群れが見えた。ヨンファより先に倒れた兵士がいた所のようだった。ヨンファの部隊は、他の戦場に移動するための行軍の途中だった。ところが猛暑に勝てなかった兵士が一人、また一人と倒れ、部隊はそんな彼らを捨てて、目的地へと向かって行った。ヨンファも熱射病で脱落した兵士のうちの一人に過ぎなかった。熱を遮ってくれる木一本無く、脱水を防いでくれる水一滴も無しに、ヨンファの体は枯れ草の上に転がっていた。

  甲1にとってその日は、ヨンファの顔が酷くチラつく日だった。それで、理由も無く飛来城を訪れ、部隊が移動した痕跡を辿って、彼女を追った。来る途中、日職たちに出会う度、原因の分からない焦りを感じた。その焦りはかつて感じたことのないものだったので、不安を追うように、ヨンファの気配を探し回った。

  ヨンファの目の前に透明の脚が現れたのと、甲1が有体化して彼女の体を抱き上げたのは、ほとんど同時だった。

「大丈夫か?

  いつも淡々としていた彼の声が震えていた。瞳はさらに震えていた。ヨンファは冷たい彼の懐に熱い体を埋めて笑った。指ひとつ動かす力が残っていない状態なのに、いつもの笑顔そのままだった。

「私に逢いたくて、いらしたんですね?」

  甲1は答えられなかった。彼女言葉を聞いた途端、何故ここまで来てしまったのかを悟ったのだ。ヨンファが彼の混乱も分からずに、続けて言った。

「私はまだ死にませんよね?ただの熱病なんですから。もうすぐ日が暮れたら涼しくなるでしょうし、そしたら今こうして上がった熱も、だんだん下がってくると思います。ほら、今だってちゃんと話せてるじゃないですか。まだ寿命が残っている私を導きにいらしたはずは無いでしょうから、甲1使者様は私に逢いたくて来て下さったってことですよね?」

  ヨンファの体は言葉とは裏腹に、手に負えないほど熱かった。もう、流す汗も残っていない体を冷やすすべも無かった。水に落ちたら拾い上げればいいし、蛇が口を開ければ遠い所に移動すればいいが、肉体を蝕む病を治す方法は分からなかった。甲1は情けない自分の能力に絶望した。

「どうすれば、この熱が下がるのだ?」

「今、この世で一番冷たいのは、甲1使者様ですよ。」

  甲1の手が、ヨンファの頬を覆った。そして、唇を撫でた。彼女の唇は乾いてひび割れていた。

「水は?」

「水筒は、倒れた時に部隊に回収されてしまって……」

「近くで水を探してこよう。」

「行かないで下さい。近くに水はありませんから。干ばつで城内の井戸も枯れてしまいました。私は水より、甲1使者様に居て欲しいのです。」

  甲1の冷たい手が、ヨンファの首筋を包み込んだ。

「甲1使者様の手が、私の熱を下げてくれるようです。

  甲1は彼女の首筋を掴んだまま、彼女の額に自分の額をくっつけ、彼女の頬に自分の頬をつける事を繰り返した。彼のやるせない努力が続いても、熱はなかなか下がらなかった。いても立ってもいられなくなった甲1が、ヨンファを抱いたまま消えた。

  彼らが再び現れた場所は、深い渓谷だった。だがそこも、カラカラに干上がっていた。もうヨンファは何も話せなかった。今まで話せていたことが奇跡と思えるほど、衰弱していた。甲1は自分が抱いているのが人なのか火の玉なのか、分からなくなるほどだった。もう一度、自分の顔でヨンファの顔を撫でて消えた。

  川の上流を遡ってようやく、石の隙間から滴り落ちる水を見つけることが出来た。甲1は、玉のように丸く一つになった水を、ヨンファの唇の間に押し込んだ。そうやって続けざまに、何度も水玉を食べさせた。水分摂取はいい具合になったようだが、それでも熱は下がらなかった。日が落ちても、世の中の暑さは変わらなかったからだ。地面が日中に含んだ熱はそのままだったので、ヨンファを下に下ろすことが出来なかった。何より、懐から離したくなかった。離した瞬間、他の死神が彼女を引ったくって行ってしまいそうだったから。

  甲1は、ヨンファを暫く宙に浮かしておいた。それから自分の鎧を脱いだ。それはあの世の品物なので、熱い地面に置くと、そこを遮断することが出来た。その鎧の上に、ヨンファを寝かせた。背中に冷たいものが触れると、ヨンファもやっと目を覚ました。

「まだ辛いか?」

  辺りが暗くなっても、甲1の顔は見えた。彼の瞳も見えた。ヨンファが両手を伸ばしながら言った。

「抱きしめて下さい。抱きしめて下さらないなら、そんな目で見つめないでください。」

「俺の眼差しがどんなだか、自分では分からない。」

「恐れている眼差し。」

「恐れて……。そうか、今、俺のこの感情は、恐れだったのか。」

「私を失ってしまうのかと恐れていらっしゃったのですよね?どうしてですか?私が死んだら、やっと甲1使者様の所に行けるのに、何故、恐れてそんな悲しい眼差しをしていらっしゃるのですか?」

  甲1の体が降り注ぐように、ヨンファの体を覆った。そうやって冷たい体で、ヨンファの熱を冷ました。水で唇を濡らしたにもかかわらず、相変わらず荒れていた口の中の熱まで、彼の唇で冷やしてやった。失いたくないという彼の切なる体と心が、ついにヨンファの熱を下げた。

  体を起こして座れるようになったヨンファが、甲1の肩にもたれて座った。そしてそのまま、空いっぱいに満ちている星々を眺めた。この夜が明けると、ヨンファは再び戦場に戻らなければならなかった。そここそが彼女の生活の基盤だった。甲1はやるせない思いで、彼女の手を握った。この世で、人間たちの中で生きることを願った。それが秩序だと思ったし、ヨンファのための道であると判断した。だが、あれほど苦労して戻した彼女に、この世は生でも死でもない場所だった。

「この世に送り帰したと思っていたが、地獄に捨てたんだな。」

  ヨンファの指が彼の指に絡んで組み合わさった。甲1は組み合わさった手を、力を込めて握った。ヨンファが肩にもたれたままささやいた。

「愛しています。ずっと、永遠に……」


********

  ヨンファが父の城内を歩く時も、甲1は無体化して隣を一緒に歩いた。人々の気配が無い時は、手だけ有体化して、恋人同士のように繋いで歩く時もあった。人間には長い時を、月職にはとても短い瞬間を、二人は恋人として過ごした。次第に甲1も、城内に住む人々の、尋常ではない目付きを感じるようになった。普通の人間の目には見えない、甲1に向けられた目つきではなかった。ヨンファに向けられたものだった。彼らの目には、恐怖と警戒がこもっていた。ある日、甲1が尋ねた。

「何故隠れて、あんな風に見るんだ?避けられてるようだし。」

  ヨンファが前だけを見つめてささやいた。

「見てないふりをして下さい。私もそうしてますから。」

「理由は分かっているのか?」

「私が死なないから。全員、皆殺しになった戦場からも、毎回生きて帰ってくるから怖がられているんです。魔鬼にでも取り憑かれてるんじゃないかと思われて。」

「お前は平凡な人間だ。あんなに殺気立って見られる言われは無い。」

「私たち、皆、人間だからです。死の恐怖は、目には見えないから。自分の心の中にある、ほんの些細な恐れさえも、どこから始まったものか分からずに生きています。けれど、私という人間は、形があるし見えます。見えない恐怖を警戒するよりも、目に見える私を警戒する方が、人々にとってはより容易いのです。それに、いくら表に出さなくても、死神が私の目に見えるのは事実だから。」

  こう話す瞬間にも、ヨンファは笑っていた。人間は、群れを成してこそ死から守られる。その群れから離れたら、死に喰われる確率が高くなる。ヨンファは群れたがらなかった。そして、そこに属さないからといって、恐れてはいなかった。あの世をすでに、見ていたからだ。

  甲1はヨンファを連れて、誰もいない所に空間移動した。暗い洞窟の中だった。でも、暖かい所だった。大海原の中に浮かぶ島だったが、ヨンファは知らなかった。波の音で、海辺のどこかだろうと見当をつけるくらいだった。そこで甲1は鎧を脱いだ。そして互いの唇を分かち合い、体を分かち合った。互いの魂を分かち合った。

********

  暗黒の牢獄を揺り動かした振動が、ピタリと止まった。目を開けた甲1が、直ぐにまた目を閉じて床に倒れた。甲3が甲1に駆け寄って起こした。彼の意識は無かった。甲21は甲2を抱いて、揺すった。幸い甲2は目覚めた。意識も直ぐに戻った。庁長とセンター長も、頭を抱えながら起き上がった。けれども、甲1の意識は戻ってこなかった。甲3がいくら彼を揺すって、耳が痛くなるほど叫んでも、無駄だった。元々脈拍が無いから、脈診も出来なかった。まるで死体のようだった。

  ところが突然、再び床が揺れ始めた。以前の振動とは違っていた。空間が動く揺れだった。床が、パズルが落ちるように四角に割れた。壁も、長方形に刻まれた。暗黒の牢獄全体が、新たに組み合わされるかのように動いた。中にいた全ての月職たちが、石の床の移動により、散り散りになった。

  ただならぬ予感がした甲3が、座ったままで甲1を力いっぱい抱え込んだ。甲1を逃がしてはいけないという意志が湧き起こった。この世で磨き上げた第六感、もしくは予感というものが、彼の意志を裏付けた。甲3は念力で、自分と甲1の体を固く縛った。これには気力をかなり消耗した。二人を離そうとして、甲1だけを引っ張る見えない力が働いていたからだ。

  瞬く間にバラバラになった石が、月職たちを1人ずつ取り囲んだ。そして結局、甲3の念力を止められなかった石は、甲1と甲3を一緒に取り囲んだ。そうやって新しく組み合わされた欠片は、月職1人ずつ切り離して閉じ込める牢獄の形になり、あらゆる動きを停止した。彼らを収めた牢獄のマスは、中央を空けて丸く集まっている構造だったが、隣の音も前の光景も見ることは出来なかった。牢獄の中に、たった一人でいるような感じだった。各自が声を限りに叫んでも、自分の声以外は、何の音も聞こえなかった。

*********

  甲5は、今回連れてくる亡者たちの閻魔符命状を、1枚ずつ確認した。その中に、少し違うものが挟まれていた。他のものに比べ、ボヤけて部分的に歪んだ文字のものだった。彼の口からため息が漏れた。ヨンファの閻魔符命状だった。

「とうとう来るべきものが来たな。」

  甲5は、歪んだ文字を見つめた。恐らく、これまでヨンファに生じた多くの変数によって、このようになったようだ。甲5が鎧の内側に閻魔符命状を入れて、建物の外に出た。三途の川に行くと、支援部隊が彼を手伝うために、一人二人と出てきた。ところが、三途の川の真ん中で、舟に乗って、この世の方を眺めている甲1を見つけた。

「おい、甲1使者。」

  甲1が振り返った。彼の舟がゆっくりとあの世の方へやって来て、川辺に停泊した。甲5が聞いた。

「何故、そうしていたんだ?」

  しばらく出られないから、こうしてあの世とこの世に脚をかけて座っていたのだ。ヨンファと別れて帰ってきた時も同じだった。離れられない心が、こんな風にぼんやりと留めさせるのだ。時には三途の川に微笑みを振り撒いたり、涙を落としたりもした。大切に秘めておいた心だったが、三途の川は、そんな彼が映す心を水面に込めた。甲1が舟から下りながら言った。

「三途の川の上が心地よくて、一休みしていたんだ。髪を解いているのを見ると、仕事に出かけるところのようだな。」

「そうだ。あぁ……、俺、今日、びっくりする亡者を連れてくるんだ。」

  甲1が、無表情で見つめていた。が、次第に恐ろしい表情が滲み出した。彼の気持ちを知らない甲5が、淡々と言った。

「ヨンファの寿命もここまでのようだ。俺たちは最善を尽くした。俺たちに会わなかったら、もう少し生きていたか、もっと早くに死んでいたかは分からないが、33歳、人間には早死とも遅死とも言えない歳だ。もし、他の奴らに、俺より先に会ったなら、ヨンファの安否を伝えてやってくれ。もうヨンファは俺達のことを忘れるんだと。あるいは、もう忘れたんだと。」

  甲5がこの世に消えた。衝撃でぽつんと立っていた甲1が、やっと口を開いた。

「俺を忘れる?あの心の中から、俺が消えてしまうのか?」

  甲1が、支援部隊の所に駆けつけて尋ねた。

「甲5使者がどこに行ったか、知っているか?」

「それは我々にも分かりません。」

  甲1が、三途の川に向かって走るように消えた。

  甲1が、数カ所を経て辿り着いた所は、既にコウモリたちが飛び立っていた。似たような兵士たちが死の武器と絡み合っていたが、甲1はヨンファを直ぐに見つけた。その時、彼女に向かって飛んで行く巨大な岩が見えた。是非を諮る余裕は無かった。彼には、ヨンファの心の中でもう少しだけ生きたいという、単純な考えしか無かった。彼女の命を奪い取ろうとする岩を、粉々に砕き去った。そして姿を現し、ヨンファに手を伸ばした。ヨンファが走ってきて彼の手を掴み、胸に抱かれた。彼らの後ろから、甲5が叫んだ。

「だめだ!甲1使者!」

  甲1が、彼に手を伸ばした。すると、甲5の懐にあった閻魔符命状一枚が抜け出した。ヨンファのものだった。甲5が必死でそれを掴んだ。その一枚の閻魔符命状が、宙に浮いた状態で止まった。互いに引っ張っていたからだ。強い月職二人の力に耐え切れなかった閻魔符命状が、空中で破れてバラバラに散った。そして地面に落ちることなく、空中に消え去った。

********

1人ずつ別々に閉じ込められ、輪のように組まれた暗黒の牢獄の真ん中に、明かりが灯った。月職たちが、そこに向かって立った。正前は石ではなく、透明なガラスのようなもので塞がれていた。本物のガラスではなかった。実体のない、防御網だった。けれども真ん中が見えるだけで、その向う側にある、他の牢獄は見えなかった。

  明るくなっている所に、背中を三角に合わせた三人のシルエットが現れた。フードを深く被って、足元まであるコートを着た彼らは、議政府の三政丞、すなわち年職だった。甲3が声を張り上げた。

「この野郎!お前らの仕業か!」

  だがこの声は、年職たちだけに聞こえるだけで、他の月職たちには聞こえなかった。他の牢獄で叫ぶ声も聞こえないように。甲2も叫んでいた。

「今のこれ、よく見慣れた場面だよな!」

「記憶がそれぞれに戻ったようだな。甲2使者、忘れた方が良かったんじゃないのか?」

  左議政のこの言葉は、甲2だけに聞こえた。

「何言ってやがる!これまで私がどれほど苦しんだのか知っていながら、よくもそんな言葉を!」

「我々は、忘れる事こそが治癒であると思っている。人間たちがそうであるから。

「それは逃避であって、治癒ではない!」

  他の牢で、庁長とセンター長も年職と全く同じ会話を交わしていた。年職たちは、閉じ込められている月職たちに、同時に言った。

「あの時、お前たち全員、本当に酷い傷だった。我々の選択は、あの世とこの世の為に最善だったのだ。」

  甲2が叫んだ。

「どうやって、月職たちの記憶を取り出せたんだ?」

  年職たちが、皆に聞こえるように同時に言った。

「蝶だったのを見ただろ?象徴の無い我々にお前たちの記憶の抽出は望めない。いくらあの当時、お前たちの体に傷があったとしても…」

*******

  茫々たる大海原に浮かぶ誰もいない島に、甲1はヨンファを連れ隠した。ここまで移動して、ようやくヨンファも状況を悟った。戦場ではあまりにもあっという間の出来事だったから。ヨンファもあの時、自分が死ぬはずだったことに初めて気づいた。

「まさか、私を生かしたのですか?甲1使者様が私のせいで……」

「お前のせいではない。俺の欲のせいだ。俺が…、お前に忘れて欲しくなくて……。お前の心の中で死にたくなくて……。もう少しだけ、お前といたいだけなんだ。」

  彼らの口づけは短かった。一緒に隠れていた時間は、さらに短かった。一日も経たないうちに、直ぐにバレてしまった。甲2と甲4、そして甲5によるものだった。探し出した彼らも皆、混乱していたし、皆、悲しかった。誰ひとり、辛くない心は無かった。今この事態に至るまで、落ち度の無い月職は、ただ一人としていなかったからだ。甲1と三人の月職は、海の上に立って対峙した。甲2が、忍びなさそうに言った。

「私があの時、しくじりさえしなかったら……」

  甲4が言った。

「私があの果物を渡さなかったら、あれ以降、我々を見ることは無かったのに……」

  甲5が言った。

「俺が…、俺が甲1使者をこの世に送ったんだ。ヨンファと再会させてしまった。」

  甲1が言った。

「俺が愛してしまったんだ。誰のせいでもない。すまない。」

  彼らの罪悪感を減らしてやりたかったが、無駄だった。

「俺たちは人間じゃないのに、どうして人間のような心を持ってしまったのか。」

「玉皇国の神々でも犯す過ちだ。だが、あの世を司る我々月職だけは、そうしてはいけないということだ。」

甲5と甲4の言葉には、嘆きはあれど、非難は無かった。自分たちが持っていない気持ちだからといって、甲1が持ってはいけないという法は無いのだから。

「すでに芽生えた心だ。持とうとして持てる心ではない。唯々、ヨンファの記憶の中で、まだ死にたくないんだ。」

  甲2が涙を流しながら言った。

「私たち月職には、作成された閻魔符命状を守らねばならない義務がある。これを破棄したのは違法なんだ。甲1使者、あんたは罪を犯したんだ。あの世に戻って、この事を報告して……」

  甲1は、閻魔符命状を破棄するつもりは無かった。少しの間、隠しておくつもりだった。なのに甲5が奪われまいと引っ張ったせいで、破損したのだ。しかし、これについての言い訳はしなかった。

「俺はあの世には戻らない!ヨンファが住んでいるここは、この世ではなく地獄だなんだ。そんな地獄に置いて行くことは出来ない。」

「しっかりしろ、甲1使者!お前がいない閻魔国など、有り得ない!」

「他の月職たちのように、長い休息期をくれと言っているのではない。もう少しだけ、一緒に居させて欲しいんだ。その後、俺が直接連れて行くから。俺が犯した罪に対する罰は、その時全て、受けてやろう。」

「すまない。我々は、強制的にでも君を連れて行かなくてはならない。」

  甲2が弓を引いた。甲4と甲5もそれぞれ、槍と偃月刀を振り回した。互いに戦っている間に、皆の心が傷ついた。そして、皆の体に傷ができた。

*********
其ノ二に続く。