寒っぶいけど どない?
今日は雪降りましたがな
京都の冬の底冷えは 結構キツおす
わてはと言えば
待望の「十二国記」
新刊短編1話プレゼントが届き
イッキ読みしましたわ
わて 強い女が好きでして
その中の『李斎』がお気に入りですのよ
この人
新たに甲2っちゅう強い姉さんが登場
わて この李斎のイメージで読んでます
またまた勝手なことで すんまへん
ほな どうぞ読んでやっておくれやす
ヨンウォンの使者たち
第 二 章 あの世の主たち
第 5 節
使者庁の入口ロビーを出入りしていた職員と使者たちが、紅海の水のようにスっと分かれた。誰かがやらせたのではなかった。そこに入ってくる、とある存在のためだった。時代を遥かに遡ったような、黒の鉄板をバラバラに重ね合わせて作った昔の鱗の鎧姿に、ふくらはぎまでダラりと降りてくる長い縮れ髪、そこに漂う並々ならぬ濃い暗黒の気配。士官学校の校長であり、新たに赴任してきた臨時庁長である前甲2だった。火の鳥を象徴としていた現甲2が一線を退いたため、この者が、甲2になるわけだ。噂を聞いて来た誰もが、そのオーラに気圧されて近づくことが出来ず、好奇と畏敬の目で眺めていた。
「ここが使者府か?ずいぶん変わったな。」
ハスキーな声だった。しかし、女性の声だった。甲2の歩みは人並外れていた。腰の動きやスラリとした脚の運び、そしてつま先の繊細さまで。粗末な鎧でも隠せない、女性らしいセクシーさがあった。甲2は月職の中でも、とても稀な女性使者だった。彼女が近くにいた1人の使者を、優雅な手振りで呼んだ。彼は人間のように、彼女の前に導かれて行った。甲2はまるでまつ毛エクステでもしたかのような濃く長いまつ毛を持ち上げ、赤くぷっくりとした唇で言った。
「庁長室に案内しなさい。」
彼女が吐き出すのは、言葉というよりは息づかいだった。一般の職員の殆どは甲2を初めて見るが、使者の中には知り合いが多かった。なので主に、ドキマギしながら見つめているのは職員、懐かしく挨拶するのは使者たちだった。
使者庁は、この世に行く三途の川と最も近い所だ。だから死神たちの勤務先まで行くには、多くのセキュリティを通過しなければならなかった。このシステムに不慣れな甲2は、他の使者たちの助けを受けながら、どうにか庁長室に着いた。その道すがら、幾多の使者を通り過ぎた。彼らのうち時職たちは、彼女を初めて見る場合がたまにあった。ついこの間まで士官学校にいた丙9でさえ、実際にその姿を見るのは初めてだった。
甲2が庁長室のドアを開けた。彼女を見た庁長は、机の前に座っていたが未練なく立ち上がり、ソファーに座り直した。
「これからは君の机だ。私はここに座ろう。」
「お久しぶりね、甲4使者。」
「子供たちが混乱する。前甲4であっても庁長と呼んでくれている。ところで、その鎧もすいぶん久しぶりだな。千年は経っているかな?」
「そうよ、私は隠遁生活がちょっとばかり長かっただろ?」
甲2は元の場所に立ち、それほど広くない庁長室を見回した。壁に掛かった済州島の地図が目障りだった。
「何故こんな、この世のものを貼ってるんだ?」
「私も何故そうしたのか分からない。躁鬱病の時にしたことだ。君の好きなようにしてくれ。もう君の部屋だから。」
許可が下りるやいなや、壁に貼ってあった済州島の地図がズタズタに裂かれて落ちた。庁長がソファーに体を丸めて座り、力無く言った。
「本とカタログは残しておいてくれ。私が持っていくから。」
甲2がソファーに向い合って座り、言った。
「お前は少し良くなったって聞いてたけど、根も葉もないデマだったんだな。」
「この前、甲3のヤツがやって来たからだ。今、この世にいる。あの野郎がやって来れば、躁病が鬱病に転換するようだ。」
「あっ!あのサイコ野郎?」
「近頃は、イカレ野郎って言うんだ。月日が流れて単語は変わっても、アイツを指す意味は今でも変わらないよ。アイツに会いたくないか?」
「我々にそんな感情は別に無いんじゃないか?感情体系や思考体系が人間とは違うんだから。高々、千年会ってないからって、会いたい気にはならないね。」
「これからは、ゾッとするほどいやらしくぶち当たってくるだろう。」
甲2が冷ややかな笑みを浮かべた。
「アイツは相変わらずなんだな。甲1使者は?」
「今、仕事で少しの間、この世へ出張中だ。」
「あいつには会いたいな。」
「そんなに気になるのか?」
「そうさ、会いたい……ではないな。恋しかった……が正しいかな?甲1がでは無くて、彼を取り巻く全てのことが恋しかった。」
「その話からすると、我が使者庁が恋しかったということだな。」
「ここ使者府、いや、使者庁と昔の私が恋しかったのだろう。今の私はつまらないから。甲2チームの消息を聞いたよ。チーム長の席、今、空席だって?」
彼女が使者庁に来たとしても臨時庁長として来ただけで、現役への復帰では無いので、甲2の席は空席と変わらなかった。
「苦労して耐えたのだが、結局…」
「私が交代していたら、こんなことにはならなかったのだろう?」
「君のせいばかりじゃないさ。私も共犯だよ。皆んなギリギリのところで持ちこたえてるんだよ。」
甲2が体勢を立て直した。それでもふかふかのソファーと鎧は、相容れないものだった。
「とても心地が悪そうだな。」
「ソファーから取替えないといけないな。」
「ソファーではなく、君の鎧を取り替えたまえ。近頃は、この薄手の安全服の方が、それよりずっと丈夫なんだよ。」
甲2は疑わしい目つきで、庁長の黒いコートを見た。庁長が言った。
「疑わしてくも着替えなさい。君のその体は、鎧や安全服よりももっと丈夫なんだから、構わないじゃないか。月職支援室の職員たちが、君をずっと待っていたんだよ。準備も一生懸命にしていたようだよ。そこで言われた通りに着て。腹を立てずに。」
トントン
ノックの音が聞こえた。庁長は応えず、手振りで甲2に押し付けた。甲2が応えた。
「誰?」
「甲25だ。」
「入って。」
ドアが開いた。茶色の綺麗な靴が先に入って来た。この世の品物だった。そして、しっかりアイロンがかかったスーツのズボンに端正なワイシャツとネクタイ。その上にかけた白い医者のガウンまで、全部この世の物で着飾った使者が、中に入ってきた。甲25の医者のガウンのポケットには青色で『イ・シモ』という文字が刺繍されていた。彼が入りながら甲2に言った。
「使者庁に来たという知らせを聞いて来た。よく来たね。」
「おかげさまで。座って。」
シモはかけていたメガネを外し、ガウンのポケットに入れてソファーに座った。
「代わりが来たなら、これからは治療に専念してくれ。僕はさっさと解決して、一日でも早く地獄庁に戻りたいから。この世は僕とは合わない。」
「大変?」
「僕は人間の魂とは相性が悪くてね。今回、甲1使者が行ってたんだろ?規模からして、当然、彼だろう。今、この世は…、とても苦しいよ。生き残った魂たちが、もっと大変な時なんだよ。」
「あんたが生活してみてどう?手袋は効果ある?」
寝るのはこっちだから、疲れてはいなかった。だが、地獄庁月職たちは使者庁月職たちとは違うから、形を保つことが難しい。興信所の甲21は別に問題は無いが、シモは気にかけていないと手から消えてしまう。これはそんじょそこらの困難ではなかった。なので、特殊製作した手袋を着用するようになった。
「上手くいったよ。人間には、私の手のように見えるようだ。」
「済まないことをした。我々のせいで苦労させて。」
「済まないと思うなら、僕にちょっと協力してくれ。早く完治出来るように。」
シモが微笑みを帯びた唇で、甲2を睨みつけながら付け加えた。
「特に甲2使者、君。」
甲2が自信の無い様子で答えた。
「努力するよ。」
*********
ヨンウォンはうとうとしながらも、甲1の袖口を放さなかった。
「行ったらダメ。私はまだ薬を飲んでないもん。薬を飲んでない…」
たまに口にするこの訳の分からない薬の話は、寝言に過ぎない。とうにヨンウォンは食卓の前に座ったまま、寝入っていた。甲1も分かっていた。にもかかわらず、彼女が望む通りに袖を掴まれたまま座っていた。敢えて外したくなかったし、振り切って行かなければならないほど忙しくもなかった。
「この魂は、一体何なのだ?」
「薬…、飲んでない…、から…」
「薬って何だ?」
甲1は袖の部分を無体化させた後、彼女の手から抜け出た。そして食卓から離れて、家の中を見回した。倉庫の部屋を先に開けてみた。本と資料、ダンボール、服が掛かったハンガーなど、彼女との会話と同じくらい滅茶苦茶な所だった。次に作業室を見た。仕事をしている事務室だということは分かった気がした。壁に貼ってある写真も見えた。庁長室にあったのと似た写真だった。
「何をしている人間なんだ?」
最後に寝室を開けた。マットレスと布団の他には何も無く、ガランとした部屋だった。
「ここが眠る部屋なのか?冷え冷えする所だな。」
甲1は部屋に立ったまま、ヨンウォンを連れて来た。彼が抱いて運んだのではなかった。無様なことに、誰かが見たら怖がりそうだが、ふわふわ浮かせて運んだのだ。これが彼女を起こさないやり方だった。ヨンウォンはめくってある布団の下、マットレスの上にそっと置かれた。そして彼女の体に布団がするりと掛けられた。甲1は発つ前に、膝を曲げて横に座った。
「ここは冷たいな。」
甲1の指でヨンウォンの頬を触ろうとして止まった。
「俺も冷たい。君に温もりを与えることが出来ない。」
指先の冷気が触れると目を覚ますだろう。するとまた行くなと駄々をこねるだろう。駄々をこねようがこねまいが行ってしまえばいいのに、これしきの人間の願いなどやり過ごせばいいのに、なのにどうしてこんなに帰る足取りが重いのだろうか?この冷え冷えとする寝床に、どうして胸が詰まるのだろうか?あまりにも長い時間、この世に出ていた。心とは関係なく、今は本当に行かなければならない。
甲1が立ち上がろうとして膝を伸ばした。ところが涙が一粒、ヨンウォンの頬の上に落ちた。甲1が指先で自分の目の下を拭った。彼の目から落ちた涙のしずくだった。
「あっ!人間の食べ物に入っているナトリウム…、俺は副作用が酷いんだが…」
甲1は、汁まで飲み干したラーメンに、どれだけ多くのナトリウムが入っていたのか知らなかった。さらにキムチまで添えてあった。普段からナトリウム過敏反応によりこの世の食べ物を避けていたせいで、情報が不足していた。やはり食べるんじゃなかった。一度あふれ出た涙は止まることを知らなかった。
「しまった!俺にストレスがあったのか?」
最近ずっと亡者を迎えに行き続けていたのがまずかったのか?それでも持ちこたえることは出来たが、どうやら今日、この女との会話も原因に入るようだった。全く理解できない話が、ただ楽しいとばかり思っていたが、ストレスだったようだ。甲1がヨンウォンの傍からキレイに消えた。
********
水の中だった。甲1が再び現れたところは。彼は深い水の中にとめどなく沈んだまま、涙を流した。甲1が水の外にゆっくり押し出され始めた。やがて彼が水を寝台にして、空を見上げて横になっているところは、三途の川の上だった。そんなふうに横になってからも、しばらく三途の川で涙を流した。どれくらい経ったのだろう。コートの内ポケットにあるスマートフォンが鳴っていることに気づいた。水に横たわったままびしょ濡れになったスマホを取り出し、フォルダブルフォン(折りたたみ)を開けた。
「センター長?」
┈ どこで何をしていて今まで帰ってこないのかと思ったら、三途の川の上で遊んでいたのか? ┈
「ひと休みしていた。」
┈ 休むのは結構だが、洗濯と風呂は別にしろ ┈
「用件は?」
┈ 庁長室に行け。甲2使者が、臨時庁長として赴任した。挨拶したいそうだ。 ┈
「わかった。」
甲1が体を起こして水の上に立った。頭のてっぺんからつま先にまで水が流れ落ちた。その顔にも水が流れ落ちた。この世に背を向けて立った。そしてあの世に向かって三途の川の上を、大股で歩いた。彼が一歩歩く度に、彼を濡らしていた水がぽたぽた落ちていった。髪と裾と靴を濡らしていた水気も、顔の水気と涙まで一滴も残さず、全部三途の川に返した。甲1が三途の川の果て、あの世に降り立った時は、以前の彼の姿に戻っていた。水に濡れる前の姿に。虚ろな人形のような姿に。
********
庁長室のドアを開けて入って来た甲1を、シモが注意深く見つめた。普段、出くわすのが難しい使者だったが、それでも何度かは挨拶した間柄だった。彼は全て一様に距離感を持って挨拶をした。使者庁の月職たちのほとんどが、久しぶりに見る甲2に熱烈な歓迎も無く、まるで昨日もあったかのようにさり気なくかける挨拶がせいぜいであったが、甲1はただ一人かけ離れた感じだった。挨拶だけではない。ソファーに座って会話する時も、仕事に関わることでなければ、概ね距離を置いている。会話から離れる感じ、自分自身からも離れているような感じがした。誰もこれについて変だと言わない。彼は元々そういう月職だと。皆が口を揃えて言うには。シモが立ち上がりながら言った。
「僕は帰って寝ないと。この世に出勤するには遅かった。」
甲1と目が合った。軽い目礼が伝わってきた。こうやって見ると、全くかけ離れた感じはなかった。他の使者たちとも挨拶をして庁長室を出た。シモはドアを閉めるまで、甲1から目を離さなかった。
シモはあの世の診察室に帰ってきた。便宜上、あの世にも用意された彼の病院は、隣にある甲21の事務室とは違ってシンプルだった。大きな机と椅子が幾つか、本棚、そしてテーブルを真ん中に置いたソファーが二つだけだった。壁には暖炉があった。もちろん、視覚的な飾りにすぎない。甲21の事務室と同じような点は、ここもあの世のドアの反対側にこの世のドアがあるということだ。
シモの頭の中は、甲1がずっと占領していた。この世では、道を通る誰でも捕まえて診療したりしない。予約してやって来て、お金を払ってくれる人たちだけ診察する。同様にあの世でも、上司から依頼されたこの世忌避症患者三人だけ治療して、地獄庁に戻ってくれば終わりだ。そもそもこの三人のために、解りにくいこの世の精神医学を学んだ。死神としての業務能力最強の甲1まで調べる必要はない。彼は上司の依頼など最初から無かった。取り上げられさえしなかった。
「業務に異常は全く無い?この世でも、精神障害と判断する際、その部分が重要な判断基準なんだよ。だったら単純な性格ってことで合ってるよね?甲3使者のような怪奇な性格もありそうだけど。」
シモは頭を空っぽにして休むために、ソファーに座った。そうするうちに、また立ち上がった。彼が指を弾いた。すると空間が変わり始めた。壁にあった暖炉が消えた。ソファーも消えた。空間は狭くなった。そして両開き扉だったあの世のドアが、小さくなって片開きのドアになった。ヨンウォンの目には非常口のように見えた、しかし平凡な人間の目には見えない片開きのドアだった。ヨンウォンが出入りする、この世の診察室に移ってきたのだ。
「我々月職の最大の欠点は、真面目だということだよ。ちくしょう!」
シモがこの世のスマートフォンを取り出し、『キチガイ野郎』と登録された番号に電話をかけた。まだ二度なる前に相手が出た。
┈ よぉ!我が愛しの甥っ子よ。こんな夜遅くに何事だ? ┈
シモがイライラした表情で、スマートフォンを睨みつけた。聞きたくないがどうするか。この世に先に来ていた甲3を母方の叔父に、後から来たシモを甥と戸籍設定したことを。しかも出るやいなや鳥肌が立つような言葉を言うということは、隣に聞いている人が居るというサインだった。
「忙しいのか?」
┈ 地下鉄事故現場に応援に来ている。お前の病院の近く。 ┈
「大変そうだな。」
┈ 体より心がキツいよ。 ┈
そばに居る人を意識した言葉ではなかった。甲3の言葉は本心だった。爆発と高熱により失われた遺体がとても多かった。あったとしても、燃え残ったものでパズルをするレベルだった。それでも遺体が見つかったのは、幸いな方だった。飛行機や船は搭乗者の把握が可能だが、地下鉄は限界があった。なので、行方不明者を探して欲しいとすがりつく家族たちと、今現在、見つかっている遺体の間には大きな隔たりがあった。
「ちょうど近くなら、わかり易いだろう。時間があるなら一度訪ねてこい。」
┈ 何故だ? ┈
「我々が、相談以外に会うことがあるのか?」
┈ だから、どういう相談なのかと。 ┈
「色々」
┈ 分かった。近いうちに寄らせてもらうよ。 ┈
「それと、甲2使者が使者庁にやって来た。」
┈ せめてもの救いだな。 ┈
通話が切れた。シモが長いため息をついた。
「甲1使者はまともだよな?…そうだろう、そうに決まってる。」
******
ドン!ドン!ドン!
「先生!返事して下さい、先生!中にいらっしゃいますよね?」
けたたましい声が聞こえ続けていた。ドアを叩く音もしたし、ミナとギョンミンの焦りを含んだ叫びもあった。時たま隣の家の人の大声も聞こえた。
「もう少し静かにしろ!一人で暮らしていると思ってるのか?」
ヨンウォンはふらつきながら立ち上がった。目がろくに開いてなかった。神経細胞も目覚めてないのか、体がフラフラしっ放しだった。ヨンウォンは夢うつつでインターホンの前に立った。画面にミナがいた。
「ミナなの?」
┈ 先生!大丈夫なんですよね? ┈
「ちょっと待ってて。ドアを開けてあげる。」
ヨンウォンがドアを開けている間、ミナとギョンミンは、隣人たちに申し訳ないと謝った。そしてドアが開くやいなや、ミナが怒り狂った顔で飛び込んできた。
「ピンポンをどれだけ鳴らしたと思ってるんですか!いらっしゃるのに、どうして!」
「一体、何時だからあなた達が来たの?」
「10時過ぎました。電話も繋がらないし、本当にもう。心臓が縮んだかと思いましたよ。」
「10時?いつの10時?」
ヨンウォンは、相変わらずボーっとしていた。それでもリビング中に陽射しが入って明るいのには気づいた。
「朝の10時なの?」
「はい!あらっ、リビングの電気はなぜ、全部つけてあるんですか?キッチンの電気も?」
「ちょ、ちょっと待って…。私、寝たの?」
生涯、眠りらしい眠りをただの一度もしたことの無いヨンウォンだった。なので今のこの感じは、馴染みのないものだった。
「私、寝たの!寝たんだって!」
ギョンミンが心配そうに聞いた。
「薬をたくさん飲んだんじゃないですよね?」
「ち、違うわ。薬は飲んでない…」
ヨンウォンが混乱して、食卓の上の薬の袋を探した。無かった。そうするうちに雑誌を見つけた。それで隠しておいたのを思い出した。退けてみた。下に薬の袋があった。袋の中には数日前から全く減っていない薬が入っていた。薬の袋をなぜ隠したんだっけ?眠りから完全に覚めた。男!昨日、幻覚が現れた。
「食器洗い、しなかったんですね。今、私が…」
「ストップ!現場保存!」
突拍子もないヨンウォンの叫びに、ミナはシンクに向かっていた足を止めた。
「あなた達、ちょっとだけ動かないでちょうだい。」
ミナとギョンミンを足止めしたヨンウォンは、素早く家のあちこちを、目でスキャンした。
「一歩も動かないでよ。」
ミナとギョンミンがキョトンとして、それぞれ鞄だけ抱きかかえて立っていた。ヨンウォンは一番先に冷蔵庫の方へ行った。冷蔵庫のドアを開けた。昨日、チキンを取り出して食卓に置いた後、彼を見たのを思い返すためだった。でも昨日取り出して、また片付けたチキンBOXの上にスマートフォンが置いてあるのを見つけた。ヨンウォンは先ず、スマートフォンだけ取り出して、冷蔵庫のドアを閉めた。
「スマホをそこに置いてたんですか?だからずっと繋がらなかったんですね。」
「待って、もう少しだけじっとしてて。」
ヨンウォンは、昨日幻覚が立っていたリビングの方へ行ってみた。そこに腹這いになって足跡を探した。
「何か失くしたんですか?先生はコンタクトをされてないのでコンタクトではないだろうし。イヤリングでもないだろうし。仰ってみてください。私達も一緒に探しますから。」
「ダメ、あなた達はそのままじっと立っていてくれた方が助かるわ。」
確か靴を履いていたのに、脱げと言っても脱がなかったのに、どんな跡も残っていなかった。立ち上がって食卓を見た。彼が座っていた椅子が斜めに置かれていた。これはあまり手掛かりにならない。数多くの精神障害のうち、潔癖症や整理癖などの脅迫障害だけは無い彼女だった。だからパス。
今度は、ミナがやろうとしたシンクの洗い物を覗いてみた。その中に無造作に投げ入れられてる二つのラーメンの器と二組の箸とスプーン!ここは充分おかしな所だった。ゴミ箱を漁った。ラーメンの袋が二つ、一番上にあった。もう一度、シンクの中を見た。ラーメンの具や出汁を捨てた跡があった。確かに記憶では、幻覚と二人で一杯ずつ食べていた。
「先生、何ですか?スマートフォン以外に何を探していらっしゃるんですか?」
ヨンウォンが自分のお腹を触りながら聞いた。
「ミナや、このお腹の中に、ラーメン二袋が入っているように見える?」
「お腹は分かりませんが、顔のむくみだけ見ると二袋は充分入っていると思いますが?先生の二重まぶた、全部無くなってますよ。」
ヨンウォンが気を落として言った。
「あっ、それで目が開かなかったのね!」
そうよ、二袋を自分で全部食べたと考えるのが理にかなっている。死神だなんて。死神だなんて!何より死神がやって来たのに、生きているじゃないの。生まれて初めて熟睡出来たのよ。どんな死神がこんなプレゼントをくれると言うのよ。結局のところ、幻覚であってこそ、説明がつくのだ。
「おしまい。動いてもいいよ。仕事の準備をして。」
ミナとギョンミンが訝しげな眼差しを互いに交わしながら、作業室に入っていった。ヨンウォンは、ゴム手袋をはめてシンクの前に立った。昨日、彼が使っていた箸とスプーンを掴んだ。
「お箸の使い方がとても慣れていたわ。」
「何がですか?」
ミナがまたやって来た。コーヒーを取りに来たのだ。
「ううん、何でもない。」
ミナが食卓の上のラーメンポットをシンクの方へ渡して、カップを取り出した。ヨンウォンがラーメンポットを見ながら言った。
「ミナや、性欲が無いのにセクシーになれるのかなぁ?」
「性欲があるのにセクシーじゃない私達もいるじゃないですか。私たちの反対もあるでしょう、まぁ。」
ヨンウォンの手から箸がポロリと落ちた。
「核心をついてる。」
「先生のコーヒーは入れませんよ。お食事が先ですから。」
「うん。私は顔を先に洗って、目を覚まさないと。」
「何時間、おやすみになったんですか?」
「さあ…、いつから寝たのかよく…」
ヨンウォンは食器洗いをしながら、じっくり計算してみた。日が暮れる頃に彼が、いえ、幻覚が現れていた。そして長い間、一緒にいたと思う。人が見れば、一人で笑って騒いでるような有様だったろう。食卓に座ってウトウトしていたところまでは思い出した。その後、部屋に入った記憶は無かった。おそらく一人で入ったのだろう。あれこれ差し引いていくら短く見積もっても、睡眠時間はゆうに8~9時間にはなりそうだった。これは奇跡に違いなかった。どれだけ長く寝たのかを見る睡眠時間だけではなかった。どれだけ深い眠りについたのかを問う睡眠の質までもが奇跡だった。そのどんな薬を飲んでしても、そんな睡眠は取ったことがなかった。
「ミナや、熟睡という単語があるじゃない。私、その意味を分かってしまったわ。昨夜の眠りは、本当に心地よかったの。」
「先生、ずっと大変だったじゃないですか。お疲れだったようですね。」
「そうでしょ?だから昨日…」
無意識が幻覚として現れて、慰めてくれたんだろう。でもそれも、慰めてくれたと見るべきなのか?幻覚のくせに、すごく弾けてなかったっけ?
「過程はさておき、結果が楽しければ良かったのよ。私が幸せな気分だったらいいの。もう本当に、薬を飲もう。」
「あっ!薬は食事を召し上がってからにしてください。具合悪くなりますよ。」
「わかったわ。ありがとう、ミナ。」
ヨンウォンが食器洗いを終え、浴室に入った。そこの鏡に自分顔が見えた。やはりミナが言う通り、ラーメン二袋分のナトリウム効果が反映されたのだと疑う余地もないほどパンパンに浮腫んでいた。
「生涯、過食人生だわ。恐怖も食べすぎて、薬も食べすぎで、昨夜はラーメンまで食べすぎて。ラーメン二袋って何なのよ、二袋って。卵までしっかり入れて食べて。私、カン・ホドンなの?」
ヨンウォンは冷水で怒りの洗顔をした。絶えず冷水を浴びせかけ、タオルで拭いた。浮腫は全く引いていなかった。今日に限ってくすんだ肌が目についた。幻覚に過ぎないが、あの男にこんなやつれた姿を見せたのが恥ずかしかった。そして癪に触った。
「薬のせいで、肝臓が悪くなって肌がくすんだのよ。私はいつになったら薬を飲まずに人間らしく生きられるのかしら。」
ヨンウォンは、昨夜のラーメン二袋に対する自省の時間を持つために、朝食は抜くことにした。なので自ずと薬も省く。ヨンウォンはコーヒーだけ入れて、作業室に持って入った。案の定、ミナの小言が飛んできた。
「なんでまた、コーヒーから…」
「昨日の夜食べたラーメンが、まだ消化してないから。なんと二袋をいっぺんにぶち込んだのよ。」
「だからひと袋ずつ分けて召し上がればいいのに、一度にかき込むからですよ。」
「それに今、頭がすごくスッキリしてるの。調子崩したくないわ。えっ?これは何なの?」
ヨンウォンの机の上に、小さなプレゼントの箱と本があった。
「プレゼントです。開けてみて下さい。」
「誕生日じゃないけど?」
「プレゼントと言えるほどたいそうな物じゃありませんが、昨日、私のを買った時に一緒に買ったので。」
包みを開けると、中からマスクパックの箱が出てきた。
「イ・シモ院長の所に行かれる前に、それ、絶対使って下さいね。保湿もされて、肌のトーンも改善してくれるそうです。」
「ありがとう。ちょうど欲しいと思ってたところだったの。」
今度は本を手に取った。〖予知夢解釈法〗という本だった。
「あっ!昨日、あなたが言ってた…」
「本を見てみて下さい。オーラがあるでしょ?」
かなり古い本だった。ミナの言葉通り、本文は全部縦書きだった。発行日を確かめてみた。1970年だった。
「わぁ!ずいぶん前のだね。出版社も見慣れないし。」
「うちの母の話では、最近もこういう本が、田舎の五日市(5日おきに開かれる市場)で売ってるそうです。内容はほとんど似通ってるみたいですけど。私が栞を挟んでおいたので、見てください。」
ヨンウォンが本を開いて読んだ。様々な蝶の形について、様々な解釈がしてあった。死神も探してみたかったけど、いっとき本を閉じて脇に押しやった。昨日のことより、今日と明日のことが急で重要だった。
「ミナや、本をしばらく借りてもいいかしら?今は読む時間が無さそうなの。」
「はい、ゆっくりお読みください。」
ギョンミンとミナはとっくに仕事を始めていた。ヨンウォンは口先だけでなく、本当に頭が冴えていた。なのでモニターで今まで連載した部分と、まだアップしていないけど今まで描きためておいた部分を、立て続けに読んでみた。彼女が首をかしげた。改めて、前から読んでみた。今度は、ウェブ漫画にだけ使うスプリング練習帳を手に取って開いた。そこに描いておいたコンテも丁寧に読んだ。そして急に言った。
「あなた達、ちょっと待って!今、作業するの止めてくれる?」
ミナとギョンミンが、同時にタブレットから手を持ち上げた。ヨンウォンがスプリング練習帳に作成しておいたコンテを、バンバン切り離し始めた。
「あなた達はリビングでちょっと休んでて。」
ミナとギョンミンは理由を聞こうとしたがやめて、互いに目配せしながら立ち上がった。そしてリビングに行って、作業室をチラチラと見た。
「何かいい予感?」
「先生が薬を飲まずに仕事をする時は、神がかってるじゃないですか。だからと言って、薬を飲まないで下さいとは言えないんだけど。」
「悪夢を見ているのを直接見ちゃうと、もっと言えないよね?」
「正直、ウキウキしてきましたよ。僕はこの頃、ニュースも見られなかったんです。悪夢を見そうだから。死んだ人が自分だったかもしれないじゃないですか。僕がいつも使ってた地下鉄だから。先生は経験されたから。1分?わぁー、本当に鳥肌が!僕もまともじゃいられないと思います。」
「犯人もまだ分からないって言ってたけど。それはそれでゾッとするよね。」
「YouTubeでは、自殺テロという見方もあるらしいです。」
「そうなの?生きていても気分悪いけど、死んでいても気分悪いわ。そんな奴は八つ裂きにしても足りないわ。」
今回の事故で死者数は現在、190人余りと集計されていた。しかし、行方不明者として申告された数はこれよりはるかに多く、負傷者の数もまた多かった。さらに、使者は増え続けていた。
ヨンウォンがリビングに入ってきた。手にはスプリング練習帳とちぎり取ったコンテ、筆記具などがあった。ヨンウォンはそれをリビングの床に置いて、二人に言った。
「あなた達、どこかに行って遊んできてくれる?2、3時間だけでも。」
「コンテを修正されるんですか?たくさん直すんですか?私達はやっていた仕事をやれば…」
「いえ、あっ!私がクレジットカードをあげるから、デパートの地下に行って、食べたい物を買ってきてくれる?この前、美味しいお店のリスト、キャプチャーしておいたんじゃなかった?」
ヨンウォンは返事を聞く前に、財布を探した。絵を描く時、一緒にいるのはある程度可能になったけど、コンテ作業は依然として1人でなければダメだった。それで二人を追い出そうとしているのだ。
ヨンウォンが倉庫部屋にかけておいた鞄から財布を取り出して持ってきた。二人に財布ごと渡した。
「何でも買ってきて。私の昼食も。」
「地下食品館のゴールデンベルを鳴らしてもいいですか?」
「不可能よ。私のカードの限度額、そんなにないから。」
「はい。」
ミナとギョンミンが鞄と簡単な持ち物だけ持って、出た。ヨンウォンが出かけようとする二人に言った。
「デザート、冷凍物も混ぜて、多めに買ってきて。思い切り走って帰らなきゃならないかもしれないけど。」
ミナとギョンミンがご機嫌で挨拶して出ていった。ヨンウォンはいつものようにドアに幾重にも鍵を掛けて、リビングで作業を始めた。まず、ちぎり取ったコンテを順番に広げた。そして、順番を変えたり、合間合間にバツ印をつけたり、くしゃくしゃに丸めて捨てたり、空いた練習帳に新たなマスを分けて、吹き出しと大まかなラフを入れて、新しいストーリーを作ったりもした。空いた練習帳に新しいページが出来るにつれ、今までのコンテのページはくしゃくしゃにして放り投げられた。時間と共にリビングいっぱいに、くしゃくしゃに丸めて捨てられる紙がどんどん増えていった。
うーん
イマイチ気分が乗り切らへん
シモの正体も分かったけど
やはり 絡まんと面白ないな
今日も最後まで読んでくれはって
おおきにさんでした