素人が、機械翻訳と辞書を頼りに

整えたものになります

基本直訳で整えていますが

今回は、意訳も多いです(直訳が変過ぎて)

誤字、解釈違いご了承ください

 

 

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デビュー時から、僕に対する批判はかなり多かったです。
格好よくないとか、アイドルドラマの基準に達していないとか、
テレビ番組であまり話さないとか。
僕には欠点があると感じていて、
自分を褒めてくれたり、僕に対する好意的なコメントはあまり見ません、
客観性に欠ける気がするからです。
なぜなら人を好きになると無条件で、盲目になりがちですが、
冷静な人は僕の足りない部分を見ることができると思うから。

自分の足りない部分を補いたくて、
ネガティブなコメントを見てしまいます。
しかし、何度読んでも、胸が苦しくなります。
ある時期、批評がかなり集中していて、憂鬱な気分になりました。
自分の本心はとてもシンプルで、ただ物事をうまくやりたいと思っていて
自分に厳しくしているのに、なぜかみんなの要求には届かないような気がして、
プレッシャーを感じていました。

一度仕事の合間に両親が会いに来てくれて、
ホテルの部屋で家族で話をしました。
二人を見送る時、父は先に出て行き、
母は僕が辛い思いをしていることに気付き、
入り口で立ち止まり
「人生はまだまだこれからよ、満足できないなら何の意味もない
 この仕事を辞めてもいいんだよ」と慰めてくれました。
僕は急に抱きしめたくなりました。

母を抱きしめた時、一方では安心感を感じつつも、
同時にあの神の視点がまた浮かび上がり、
いつの日か、両親が年を取り、母に会えなくなる日が来たとしても
このハグは記憶に残るだろうと思うと、涙が出てきました。

両親とは仲が良いです。他の子たちとは違うのかもしれませんが、
僕は小学校の頃から芸術はすべて自分で要求して来たし
どんな考えでも両親は基本的に応援してくれました。

4、5歳の頃、未就学児クラスに入ると、学校には砂地があり
そこには鉄棒や平行棒と登り棒がありました。
その頃、僕はよじ登るのが大好きで、いつもそこで遊んでいました。
ある日、疲れて砂場に座って休んでいたら、
ちょうど学校のダンスクラスがチラシを配りに来たので、
衝動的にその授業を見に行きました。
クラスのほとんどは女の子で、彼女達が中国武術の蹴り技をしているのを見て
すごいと思って、帰って母にダンスを習いたいと言いました。
僕は小さい頃から体力があまりなかったので、
母親も運動ほしいと思っていたので、ダンスクラスに入って
ずっと習い続けてきました。

少し大きくなって、ピアノを習いたいと思ったとき、
母はためらうことなく、何万元も出してピアノを買ってくれました。
芸術を学ぶには費用がかかり、僕の家庭の経済状況は平均的でしたが、
母は常に教育にはお金をかけるべきだと考えていました。
母はとても厳しく、ピアノの練習をするとき、ハンガーを持って隣に座り、
じっと見ていて、しょっちゅう叩かれました。
ある時、我慢できなくなって紙に「打人犯法(叩くのは法律違反)」と書いて、
母が叩こうとしたとき、紙をさっと持ち上げました。
母はすぐに笑いました。

だんだん、一緒に芸術を学んでいる先輩の中には
北京の芸術学校に合格する人が出て来て、雰囲気が変わったような気がしました。
僕も北京に行けたらいいなと思いました。

僕の故郷は荊州という小さな街です。
子供の頃、荊州で最も賑やかな通りは北京路と呼ばれ
北京路に沿って進むと中山公園に行くことができ
そこは当時、荊州で最大の公園で、ジェットコースターがあり
隣には広場がありました。
土日はそこで仲間と一緒にローラースケートをしていました。
それからその近くにステーキハウスもできて、
運良く、僕が4、5年生の時にステーキハウスが協賛の
英語のスピーチコンテストで金賞を受賞し
受賞者には会員カードが贈られました。
毎年、誕生日には、母は僕を中山公園に連れて行き
遊んだり、写真を撮ったりして、ステーキを食べに行きました。
子どもが喜ぶ娯楽のほとんどはそこにありました。

その頃、地方に行く機会はあまりありませんでした。
時々、武漢に公演に行くと、環状道路、高架橋、長江大橋、
そして建ち並ぶ高層ビルなど、これまで全く見たことのない光景で、
本当に大都市に足を踏み入れた気がしました。
皆、興奮のあまり道中眠れず、窓の外をじっと見つめていました。
僕達にとって、北京に行くことがどれだけ遠く、
どれだけ尊い事か想像してみてください。

北京に行きたいという思いがあり、両親も応援してくれて
大都市に行くことができるなら行きたいですよね。
出来るだけ早く皆と同じスタートラインに立ちたいでしょ。
北京舞蹈学院附属中等舞蹈学校の受験の準備を始めました。

一年目は地元で一次試験を受けましたが、
年齢が足りなくて先に進めませんでした。
翌年、北京で受験し、合格発表の日、
父が僕を連れて行ってくれました。
その頃はオンライン結果発表もなく、
合格者リストは北舞附中の入口の壁に掲示されていました。
人混みに紛れ込み、自分の名前を探しました。
最終的に名前がないことに気付き、困惑して父を振り返りました。
後に父は、僕の小さな姿と、落胆した目を見ているのが
辛かったと、言いました。

三年目でやっと合格しました。
一緒に芸術を勉強していた仲間の多くが、親に連れられて北京で受験し、
北京舞踊学院付属中学の隣のホテルに泊まったのを覚えています。
条件のいい人は普通の部屋に泊まり、僕達の多くは地下に泊まりました。
部屋には窓がなく、みんな中にいるのが嫌で
廊下で柔軟体操をしたり、発声練習をしたりしていました。
休みの日には、子供達は集団ではしゃいで走り回っていました。
その年、最終的に私だけが合格しました。

後に、僕はよくこの経験を冗談で言うようになりました。
大学入試の成績は良かったかもしれないけど、
中学校は3回受験してやっと合格したんだよと。

ちょうど僕が北舞附に合格した頃、父の事業が失敗して
30万元の借金を抱えていて、当時としては相当大きな金額でした。
生計を立てるため、長い間フルタイムで働いていなかった母は
スーパーでアルバイトをし、月700元を稼ぎました。
北京にいても明らかに家計が逼迫していて、
何をするにもお金がないと感じました。
その数年間、親戚は僕に多額のお年玉をくれましたが
実はそれは僕が学校へ通うための経済的援助だったのです。

大学に入学してから、ピアノ、声楽、ボイトレ、振り付け、台詞、演技など、
教えられることはすべて教えていました。
収入も結構良いので、家計に少し貢献できるようになりました。
後で知ったのですが、母はスーパーでアルバイトをしている間
ずっと立っていなければならず、とても疲れていたそうです。

これまで両親はほとんどの時間を僕に費やしてくれましたが、
僕が独り立ちしてからは、暇を持て余すようになりました。
今は主に僕が両親のスケジュールを組んで
モルディブ旅行に連れて行ったり、行ったことのない場所で撮影をする時は
遊びにおいでと誘って、家族で集まることができるようにしています。

子供の頃からこの業界に入って、長い間ハードに勉強して働いてきたので、
自分の忍耐力は、それなりにあると思います。
辛くても親には言わないし、かつて悩んでいたネガティブなコメントも含めて
自分で抱え込むことには慣れてきました。

だんだん、僕も吹っ切れて来て、批判されるのも
当たり前だと思うようになりました。
俳優はもともと見られやすものですし、
特にここ数年は、皆さんの生活もあまり順調ではないようです。
批判したければ批判すればいい、本当に辛いときは見ません(笑)
 

 
 
そのへ続く

 

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