ロシアの文豪ドストエフスキーの作品。
1865年、賭博で一文なしになったドストエフスキーは、編集者にこの小説の構想を売り込み、原稿料の前借りを頼んだ。
その翌年から連載が開始された。
全体的に、ひとつひとつのシーンが長く、会話が中心に進む部分が多い。
貧困の描写が凄絶。女性の地位も低い。でも、当時の日本も同じようなものだったかもしれない。
苦労したのは、登場人物の名前。
ロシア語の名前は馴染みがうすく、愛称もわかりづらい。
主人公「ラスコーリニコフ」は「ロージャ」と呼ばれたり、主人公の妹「アヴドーチヤ」は「ドゥーニャ」だったり「ドゥーネチカ」だったり。
誰が誰やらわからなくなってしまい、慣れるまで人物一覧を見ながら読み進めた。
以下ネタバレあります。
主人公のラスコリーニコフは、元役人の未亡人で質屋を営む老婆を斧で殺害し、たまたまその現場に入ってきた老婆の妹をも殺害した。
ラスコーリニコフは殺害の前に、自分が老婆を殺害するとしても、それは「犯罪ではない」と考えていた。
これは、ラスコーリニコフが以前論文に書いたある考え方から来ている。
それは、人には凡人と非凡人の2つの部類があり、凡人とは保守的で服従を義務としている人びと、非凡人とはごく少数の人であり、新しい思想の実現のために障害を踏み越える権利を持つ人々のことである、非凡人が障害を踏み越えるのは自分の良心に対してであるが、ある種の人々が思想の実現の障害となっている場合は、その人々を犠牲にする義務さえあるというものである。
なぜラスコーリニコフは老婆を殺害したのだろうと考えながら読んでいた。
殺害したことで状況が変わることはない。
貧困に覆われた世の中が変わることもないし、盗んだ金品を使って家計を助けることもできない。
そもそもすぐ足のつく質草でなく現金を盗もうとさえしていない。
ラスコーリニコフも、老婆を殺害したことで現状を変えられるなんて思っていなかったのだろう。
彼はソーニャに罪を告白したときに
「ぼくがあのとき、一刻も早く知りたいと思ったのは、自分はみなと同じようにしらみなのか、それとも人間なのか、ということだった。ぼくは踏み越えることができるのか、それともできないのか!」
ラスコーリニコフは、自分が非凡人なのか試したかった、自己満足のためと言っていいと思う。
殺害によって罪の意識と捕らえられる恐怖に怯えるラスコーリニコフは、ソーニャに心が向いていく。
ソーニャは、ラスコーリニコフが酒場で偶然出会った元役人マルメラードフの娘で、家計を助けるために娼婦をしている。
ラスコーリニコフは、ソーニャは娼婦となったことで自分の生命を殺したのだから、彼女も自分と同じく「踏み越えた」人だと言った。
そうだとしても、ソーニャは他人のためであり、ラスコーリニコフは自己満足のためだった。
他人を犠牲にするのと自分を犠牲にするのとでは全く違う。
すさんだ生活をしていても純粋な心を失わないソーニャと自分との違いにラスコーリニコフも気づく。
そしてラスコーリニコフは自分踏み越える権利のない凡人なのだと自覚した。
監獄に入った頃のラスコーリニコフは、殺害したことよりも自首したことで自分を責めた。
また自殺せずにいる自分にも疑問を感じる。
なぜ生きているのか。
おそらく非凡人になりたいという願望は、存在を認められ愛されたいという願望だったのではないか。
ソーニャと出会い、生きる意味を見つけたのではないか。
今回読んだのは岩波文庫の江川卓さん訳のもの。
訳注でドストエフスキーが影響を受けただろう聖書の記述にも触れていてわかりやすかった。