自叙伝「孤高の歩み」本文より抜粋
自叙伝「孤高の歩み」本文より抜粋
*
(前略)二十六歳の時に私の精神、全意識を震撼させ一変させるような事件が生じた
接客業にはつきものの常連がいる。大妻女子大に通っている女性が私を気に入って毎日来店するようになった。一度社会に出て演劇をやっていた女性である。
私がY子にその事を話すと表情が一変した。Y子は大学を卒業して会社に勤めていた。卒業と同時期に下宿から親族所有のマンションへ移っていた。その部屋は八階であった。その窓からふいに「死ぬから」と、飛び降りようとしたのである。無論、私に対しての抗議で本当に飛び降りるとは思わなかった。
例外なく、孤独という意識状態を所有している魂は独占欲の異名でもある。その事は私自身がよく分かっている。孤独の深さに準じてその強度は増す。真の孤独に至れば孤独という概念は消失する。
私は女性二人に一切の感情を出すな、と厳しく命じた。その代わり私は死ぬまで食を断つ、と。
自分の中途半端な情が女性を通して顕れたのである。この状況を処するには死を覚悟するしかなかった。ただ、店のカウンターに入っている私にとって、私の行為は客には奇異に感じられたであろう。四日も過ぎたころは睡眠は二時間ほどで眼光は鋭く、異様な殺気を放っていた。それでも大半の客には私の放つ雰囲気は涼しげに見えたらしい。
私は食を断ち、七日も経てば自分が無感情になるのは知っていた。ただ、包丁で玉ねぎなどを刻んでいると不意に自分の手首を落としたくなるという衝動が何度も湧いた。私は自身のバランスを取るために全ての行為に反対の概念を念仏のように繰り返していた。私が食を断っている時にも客には様々な反応が生じた。私はそれらを全て無視した。
*
私は当初、自分自身に何が起きているかが分からなかった。強烈な魂の内的神秘体験であった。実生活で判断する根拠であった足場自体が一挙に消滅した。
私の生い立ちや環境、あらゆる経験、体験の意味が内側から瞬時に照らされた。私の頭の内側は眩しい光に満ちていた。さらには、脳味噌がショートして破裂寸前の危機的状況でもあった。日常生活が心身ともに耐え難く名状しがたい苦痛は止む事は無かった。私は自分自身を保持するために強度の緊張と強固な意志が必至であった。
私は自宅に帰ってもほとんど眠らず、常に正座して一点を凝視していた。その様子を見ていた父は「幸吉も狂った」といって嘆いていた。
私は自分自身の心身を保つためには厳密な言葉が不可欠であると痛感した。私は、私と同じような体験をしている人物を歴史上に探した。私が体験した状態を理解できるものは身近には存在しなかった。
私は最も不快というのも不快な人間界に自ら踏み込む羽目になったのである。
言葉の世界に踏み込むのに若干の不安はあったが、覚悟して踏み込んだ。まず、骨格として哲学、肉付けとして心理学、対人間に対する処し方は文学と。店の仕事をしながらである。私は近所の書店を片っ端に見て回った。私の直感力と高速で活動する思考は書物の背表紙に書かれているタイトルと著作の頭と最後の数ページを読むだけで瞬時に理解した。
私は哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳、中央公論社1973)が自分の極度に緊張した日々の意識状態のバランスを保持するのに適していた。ニーチェの翻訳された著作はほとんど読破した。哲学者はプラトンやアリストテレス、ヘーゲル等々、山頂にいる存在を主に読む。他はその亜流に過ぎない。
近代のニーチェやアルチュウル・ランボオ以降に影響を受けた一般に実存主義と称される哲学、文学は自然科学に依拠する相対的世界観に呪縛され、無方向が方向、或いは無意味が意味という実体無き虚無的世界観でしかなかった。
絵画ではキュビスムから抽象表現へという運動が連動していた。相対的意識とは一切の事物を公正に偏見なく観る、という一視点に過ぎない。この相対的意識状態が世界観と化せば虚無的世界観となる。ただ、単なる動物ではない人間が目的や方向を喪失したらどうなるかは言わずもがなである。(後略)
☆自叙伝「孤高の歩み」 —虚無から創造精神へ— (幻冬舎)
「孤高の歩み」梅崎幸吉著 アマゾンにて紙の本と電子書籍版
https://www.amazon.co.jp/dp/4344690834