魂の肖像画としての「近代絵画」小林秀雄著 | 梅崎幸吉のブログ

魂の肖像画としての「近代絵画」小林秀雄著

魂の肖像画としての「近代絵画」小林秀雄著 新潮文庫)

 

下記の文章は拙著「小林秀雄論」からの一部引用です。

一部は私が結核になる前(39歳)で、二部は結核後です。

両方共10日前後で一気に書いたものですが、一部は半ば遺書のつもりで書いたものなので息せき切っていて足取りが乱れています。

 

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 「マネからゴッホやゴーガンに至る道は、ボードレールからランボーやヴェルレーヌに 至る道であった」(小林秀雄著「近代絵画」新潮文庫)と。
 
そして、それを日常化する思想家的存在として「ピカソ」を最終 章にもってくる。小林秀雄はピカソを自分と似た「宿命」を胸中深く蔵した存在と、観 た。
ピカソのなかに「自己解体」の果てに至った自己の「断片」をいかに、個人の名に おいて「生命的に統一」するか?と真摯におのれの問題と化した、果した芸術家の魂 を観た。観えてなを、それを「宗教の名」において語らず、「体系」の名において語らず、 「いかに自由に」表現しうるか?と、日常化しうるか?と、――ピカソは「万人の自 画像」を描こうとした。
その内的歩みにどれほど深く秘められた孤独と、悲哀、絶望が ピカソを襲ったか、いかにそれを乗り超える内的努力をし続けたかを、小林秀雄の慧眼 はしっかと見抜き、見据えていた。ピカソに対して一番長い文章を必要としたのはその ためである。
そこいらの美術評論家の上っ面をなでるような分析的表現とは雲泥の差が ある。
「近代絵画」は小林秀雄の心が「素裸」のまま、存在と存在が融合しつつ、ぶつかり、火花を散らし、そして「親心の眼差し」で、深い共感をもって現わした、かつてな いほど比類なき芸術家の「魂の肖像画」なのである。
 
 歯ぎしりが楽音に、忍耐が空間へ、悲哀が慈しみに、孤独と苦悩が魂と魂の生きた織 物へと、――ついに、毒が薬へと変容する。肉を具えた「同胞」への限りない「深い真 面目な愛」が日常の意識と化し、不動のものとなる。

次の文章は小林秀雄の批評の極意 と言ってもよい。

「セザンヌは、自然というところを感覚と言ってもよかったのである。 或は感動とか魂とか言ってもよかったであろう。感覚を解放するとか純化するとかいう 事は、感覚から感受性を隔離するということではない。そういう工夫は、感覚に対する 言わば外的注釈にすぎない。在るがままで、自足しているが、望めば望むだけいくらで も豊かにもなるし、深くもなる。そういう感覚はある。画家たらんと決意すれば立ちど ころにある。静かに組み合わせ、握りしめた両手の中にある。一方の端は、自然に触れ、 一方の端は、心の琴線に触れていて、その間に何の術策も這入って来る余地はない。大 事なのは、この巧まない感覚の新鮮な状態を保持し育成する事なのだ。彼の言葉に従が えば、油断すれば、あらゆる言葉となって、行動となってばらばらに散って了う、この 不安定なものを繰り返し、静かに両手のうちに握り合わす事なのだ。『いつまでも、自分 の開いた道の原始人に止まろうと努める事なのだ』。自然の深さとは、一切を忘れてこれ を見る人の感覚の深さの事だ。セザンヌの実感或は信念よりすれば、自然にも心の琴線 があるという事である」。
 「自分というものが干渉すると、みんな台無しになる、何故だろう」、とセザンヌはつぶ やく。

「無私の精神」が生き活きと日常化され、活動しない限りは、そしてこれは分野を 問わず通じることである。それに至らぬ限り「肖像画家の対象は、へーゲルが言った様 に『果しのない主体性』なのである。」といった空間を歩み出て自由にはなれぬ。象徴の 森で迷う。

セザンヌは言う「凡そ画家の意志というものは、黙ろうとする意志でなけれ ばならない。偏見の声という声を抑えたい、従がっていたい。黙っていたい。完全な反 響となりたい」と、だが、これだけでは「堂々巡り」を脱することは出来ぬ。むろん「土 台」として、空間としては基本的な必要条件ではあるが、それだけでは足りぬ、相対的 世界観から脱出不可能になる。「無常」の中に佇み身動き出来ぬ状態と実質的に変わらぬ。

――無論、セザンヌは「相対化」する(それも生きた感情を失なわずに)事を画面の上 で意識的に個人の名の元にはたした業績は大きい。西洋においては。――だが、すでに セザンヌのした事は雪舟によって四百年以上も前に徹底的になされている。だが、こう した比較は控えるべきかもしれぬ。
 
西洋にあってはすでにその意識の「種子」はソクラ テスによって「無知の知」という形で蒔かれ、表現こそ違え、レオナルド・ダ・ヴイン チもそれを実行しているからだ。ちなみに雪舟とレオナルドは同時代人である。