今日の夕食は、インスタントの天ぷらそばと、半熟卵のおにぎり。
今日のお昼と全く一緒・・・
午前中に買っておいた物を置きっぱなしで食べそこね、
昼過ぎにコンビニに寄ったときに全く同じ物を買ったという。。
どうしても食べたかったのか、記憶喪失かわかりませんが、三食同じ物でも、苦にはなりません。

ここからが本題↓
一週間ほど前。
久しぶりに新幹線に乗り、たまたま実家のすぐ近くの景色が見えて来て、
何年か前にも車で普通に実家の前を通りながら、「あぁ、ここ実家なんだけどね」
「寄らなくていいの?」って突っ込まれた記憶がよみがえり(;^ω^A
(別に帰りたくないわけじゃないんだけど、わざわざ帰る時間を作るのが)
ちなみに、名古屋から東京方面へ向う時の最初のトンネルの手前です。右手あたりに見えます。
新幹線なので、あ、トンネルだ!って思った時にはもう遅いって話ですが・・・
東京駅につく手前で、地図を見ながら、(地下鉄よりも、歩いた方がいいかな?だいぶ時間に余裕があるし)実際2時間近くも時間があったので、歩く事に。
(八重洲口から日本橋方面へ・・・)
ん?日本橋?
三重テラスがあるとこじゃないか!!
危うく通り過ぎるところでした・・
実際地図で見ながら目の前を二回通り過ぎても、分からなかったのですが(´・ω・`)
いろいろ言いたい事はあれども、ウチの商品が一つも並んでいないのが現実でして・・・
これは深く受け止めたいと思います。
そんなこんなで、三重にも実家にも愛着が無く、郷土愛なんてわかっておりませんが、
「かぞく」とか、
「しょくたく」とか、
言葉にするだけで、
文字を読むだけでも、
目が潤んでしまうのはなんででしょうかね?
「ふるさと」って誰にでもあるのですかね?
・吉本隆明さんが、最晩年に
いちばんくり返し言ったのは、
「沈黙」ということばではなかったか。
とにかく、「ことばの幹と根は沈黙なんです」と、
何度も何度も聞いた。
そして、「沈黙」というのは
「自己問答なんじゃないでしょうか」と。
じぶんがじぶんに問いかけ、じぶんがじぶんを疑い、
じぶんがじぶんに教えられ、じぶんがじぶんをたしなめ、
じぶんがじぶんを励まし、じぶんがじぶんと交わる。
問答の材料は、他人から受取ってきたものもあるだろう。
聞きかじりも、読みたての智恵や知識もあるだろうが、
それを、ひとり、自己問答することで、
じぶんの考えが生まれてくる。
ぼくはそんなふうに受取っていた。
矛盾が矛盾のままであることも、いくらでもある。
解決や正解といったものから離れていってしまうことも、
いまはあえて棚上げにしていることもあるし、
さらなる熟成を待たねばならないこともある。
じぶんのこころのなかで、さんざんやりとりされる問答。
それが無言のうちにこころのなかで行われている。
自己問答があったか、つまり沈黙の時間はあったか。
そこを経ている考えかどうかで、ことばの根がわかる。
ぼくが、よく人のことばにうたれるときに、
「あの人、それについてさんざん考えてきたんだよ」
と思うことが多い。
たっぷりの沈黙を根に抱えていることばは、生きている。
ぼく自身が、ツイッターなどでおしゃべりをしたり、
ささっと答えを知ろうとして
お気軽にネット検索をしたりしているとき、
せっかく溜まってきた沈黙が、蒸発しているのかもね。
いつ自己問答をするか? いまでしょ!
自己問答の時間は、どこにあるか? 独りのときでしょ!
ネットにもつながっていない「ひとりの時間」を、
もっとたくさん持ちたいと思います、来年はもっと。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
少なく語って、少なく力になれたら、強くなれると思うよ。
題の意味は、昨日久しぶりに読んだ、ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」がツボにはまって、引用しようとしたらアーカイブが無いらしく、自分の言葉で書こうと試みつつも、ネット検索したら出て来たのでそのまま載せたところです。
「お気軽にネット検索をしたりしているとき、
せっかく溜まってきた沈黙が、蒸発しているのかもね。」
今日、「年末に帰るかも」なんて、言ってしまったという・・・