ラーメンと共に食べる半チャーハンは、普通に頼むチャーハンとは私の中で位置づけが違います。味のレベルや量にかかわらず「半」と名乗る以上は、あくまでラーメンの脇役なのです。しかし、チャーハンが美味しいから行くという店は確かにあり、たまにチャーハンが食べたい時はその店に行くことになります。最近はチャーハンをメインにし小ラーメンとセットメニューにする店も出てきましたが、組み合わせと内容が同じなのに、なぜか半チャーハンでないと頼む気になれないのです。

 

  「福万来」 柏市豊四季

ランチメニューのラーメン・半炒飯をオーダー。ラーメンもチャーハンもシンプルながら味はしっかりしています。チャーハンはややしっとり系。私はパラパラよりも好きなのです。ラーメンもチャーハンも全体的にとても優しい味なのです。調理人の腕と店の良心が感じられるメニューと言えます。

 

 

 

  「らーめん超 ひがし皐月」 松戸市新松戸

70代と思わしき頑固そうなご主人と奥様でやっている店。店名を冠した「ひがしセット」がラーメンと半チャーハンなのです。私の他にも数人客がいたのですが、驚いたことに私を含めた全員のオーダーが「ひがしセット」でした。あっさりしょうゆの優しいスープに中太のつるつるしこしこ麺。チャーシュー、メンマ、ナルト、海苔。優しい味です。ラーメンは奥様が作ります。ご主人が作るチャーハンはしっとりと言うよりややベッチョリ。味は少し濃い目で私好みの味です。量もたっぷり。それぞれの味に作り手の人柄が現れているようで面白く感じました。

 

  「珍眠」 野田市谷津

何を食べても美味しい店です。セットにするとミニサラダとシューマイがふたつ付いています。ラーメンもチャーハンも味・量ともに満足できるレベルです。

 

 

  「小満堂」 柏市大青田

実は妻が頼んだメニューなので、少し味見をさせてもらいましたが私は完食していません。改めて写真を見るととても美味しそうなのです。この店は現在休業しています。再開を祈って掲載します。

 

 

  「鑫隆園(しんりゅうえん)」 野田市上花輪

もやしラーメンはあんかけのサンマーメンではなく、中太麺の醤油ラーメンに茹でたモヤシが乗ったタイプです。五目チャーハンは具材は缶詰野菜と玉子ですが、味付けはよく上品で美味しく感じました。

 

               東京都で思い出に残った店…1

1986年5月19日     中華料理 「沢田軒」出前    中央茅場町     ミソラーメン・ニンニク
私の味噌ラーメンの好みを決定づけた店です。残業が長引くと上司が出前を取ってくれることがあり、私は特にこの店の味噌ラーメンがお気に入りでした。豚ひき肉と白菜をたっぷりのラードで炒めた具に白味噌の味噌スープ。麺は中太麺と思われました。思われましたというのは、出前なので麺が伸びきっているからです。本来伸びた麺は許せない私なのですが、白味噌スープをたっぷり吸った麺は伸びていてもとても美味しく感じました。そしてスープにニンニクを加えると旨味は倍増するのです。たまに店でも食べます。店で食べると麺は伸びていないので当然美味しいのです。しかしスープを吸って伸びた麺も捨てがたく、また出前で頼んでしまうのでした。

1986年5月22日     「時計台」 中央東銀座 麦味噌ラーメン 750円
お得意様の担当から「東京で札幌ラーメンを食べるならここだ」と言われて通うようになりました。「麺多めで」と頼むと価格はそのままで少し大盛にしてくれます。

1993年1月22日 「味助」 中央東銀座 ワンタン・チャーシューメン大 900円
醬油ダレの強い真っ黒なスープに、中細の縮れの強い麺。脂身の少ない固めのチャーシューに、やや皮の厚いワンタン。麺大盛はかなりの量でした。

1993年2月26日 「萬福」 中央東銀座 中華そば 580円
澄んだスープに中細縮れ麺。スープの上品さに驚かされました。

1994年3月7日 「上海手打ちそば ヤンヤン」 中央東銀座 特製肉そば 950円
18時にはもう店内満席でした。あっさり醤油味の中華スープに不揃いで太めの手打ち麺。何よりも大量の角煮が入っているのです。麺より肉に満足です。他の客が食べていた餃子が美味しそうでした。

1994年8月20日 「天鳳」 羽田空港 ラーメン大 650円
モノレール階にある店です。澄んだあっさり醤油スープに中細ストレート麺。具はチャーシューとネギにさやエンドウのみ。美味しくいただきました。場所を考えれば価格も良心的です。搭乗階にある、味がイマイチなのに価格が高い他店より数段レベルは上だと思います。

1995年3月10日 「えぶりわん」 羽田空港 ダールーメン 750円
ダールーメンというメニューを見たのはこの店が初めてでした。どろりとした中華とろみを茹でた麺の上にかけただけです。焼きそばではありません。世間的には評価は高くないと思います。しかし私はこの類の麺料理が好きなのです。美味しくいただきました。その後5月に再訪したらダールーメンはメニューに無く、聞くと冬季限定メニューとのことでした。

1995年8月8日    「博雅」 中央八重洲 海老ラーメン 900円
普通の海老ソバとは違い、野菜たっぷりのタンメンの中に海老が入っていました。トロミもありません。不味くはないのですが期待外れでした。

1995年9月6日    「味の一」 中央銀座 ワンタンメン 700円
すっきりとした東京風の醤油スープに、具はワンタン、チャーシュー、ネギのみ。麺は中細平打ち縮れ麺。たまに東京に来ると醤油スープに縮れ麺というだけで点数は甘くなります。

1996年1月11日 「たいめいけん」 中央区日本橋 洋食コースの締めのラーメン
鶏ガラベースのあっさりした醤油スープに中細縮れ麺。固めに茹でてあります。具はチャーシュー、メンマ、ナルト、ネギ。チャーシューは縁の赤い本当の焼豚です。締めに食べるので器は小さめですが、麺は普通の博多ラーメンぐらいの量はあります。洋食の名店です。

1996年1月12日 「龍岡」 千代田神田錦町 モヤシラーメン 680円
昼前なのに店の外に行列。店の中もカウンターの後ろの壁沿いに待っている人がたくさんいます。客のほとんどは近くにある東京電機大の学生と思われます。野菜たっぷりの味噌ラーメンが一番人気のようです。並んで待っているだけでラーメンを作るおばちゃんたちの気合が伝わって来る店です。あっさりしてコクのある醤油スープに中太ストレート麺。何よりモヤシを中心とした野菜がてんこ盛りです。学生を対象としているからこその価格と野菜の量なのです。満足いたしました。

1996年8月6日 「銀座支那麺 はしご」 中央八丁堀 だあろうめん 900円
昼時に並んで入店。鶏ガラベースのあっさり醤油味。脂は全く浮いていません。麺は中細縮れの玉子麺。とても品の良い中華そばです。具はチャーシュー3枚に、ナルト、ネギのみ。このチャーシューがイマイチ私の口には合いませんでした。だんだんめん、というメニューもあるようなのでもう一度機会を見てトライします。

1997年4月2日 「中華そば たぬき屋」 足立北千住 メンマワンタンメン大 650円
★ラーメン・ブログ 阿伏兎  思い出のラーメン店③でご紹介しました。

1997年5月6日    「真好味」 中央茅場町 手もみラーメン・貝柱粥セット 800円
★ラーメン・ブログ 阿伏兎  思い出のラーメン店①でご紹介しました。

1997年5月7日    「桂花」 新宿三丁目 阿蘇ラーメン 700円
熊本ラーメンの老舗です。豚骨スープに中細ストレート麺。熊本のふあん店で食べた時よりスープはマイルドに感じられました。ひき肉、茎ワカメ、高菜入り。大盛は対応していないそうです。

1997年5月29日 「餓王」 港新橋     モヤシ拉麺 800円
店の外からも見えるように、ガラス張りの作業場で本場の方と思われる調理人が手延べ麺を作っています。昼時なので客で一杯です。頼んで10くらいで出てきました。あっさり醤油スープに極太の手打ち麺。モヤシあんかけには他の具も入っています。もう一度トライしてみたくなる店です。

1997年6月3日    「中華そば 高はし」 飯田橋 チャーシューメン大 1,000円
12時過ぎに行くとすでにかなりの行列。30分待って席に着きました。カウンターだけの雰囲気のある店です。中華そばの普通盛は600円。チャーシューメンは厚めのチャーシューが7~8枚入り、メンマと大量の博多万能ねぎが乗せられています。麺は中細縮れ麺。私が少し引っかかったのはスープです。茶色かがった半透明のスープにはかなり脂が浮いています。脂っこく塩味もあるのですが、何より大事なコクが感じられません。高菜麵がメニューにあるなど福岡を意識しているのは明らかです。仕事はきちんとしているので私とは相性が悪かったということなのでしょう。

1997年6月5日 「九州じゃんがらラーメン」 秋葉原 角煮・味卵 810円 替玉 150円
20分も並んで待ったのに、出てきたラーメンにびっくり。具は普通、麺は博多風の細麺ストレート。しかしスープが私には合いません。あっさりといえば聞こえは良いのですが、私に言わせればコクが無く薄っぺらで平板な豚骨スープです。しかも、じゃんがらラーメンと呼んでいる普通のラーメンで600円も取るのです。九州を謳いながらこのスープは九州の人間には許せないレベルです。帰社して福岡出身の同僚に聞くと、彼は銀座店しか行かないそうです。その理由は銀座店には、ぼんしゃんラーメンというこってりメニューがあり、彼はぼんしゃんしか食べないからだそうです。結局私はぼんしゃんも食べる機会はありませんでした。

1997年11月10日 「加賀屋」 中央新川 ラーメン大 830円
昼はラーメン、夜は居酒屋という形態のようですが夜は行ったことがありません。普通のラーメンは650円です。煮物などの小鉢が付いたラーメン定食とラーメンの大・小が昼のメニューです。しっかり出汁を取った脂の少ない濃い目の醤油スープにはうま味調味料も使われています。食べている時はとても美味しいスープなのです。具はチャーシュー、メンマ、ナルト、ネギ。麺は極細に近いストレート麺です。ラーメンにはレンゲは付いてきません。価格は高めですが、会社から近いこともありよく通ったものです。新潟出身の同僚は「長岡のラーメンにとても良く似ている」と言っていました。この店で特筆すべきなのは店を仕切っている“おねえさん”の存在です。30代後半と思われるその人は、客に笑顔を見せることが無くいつも不機嫌そうにしています。客は店に入ってもお姉さんの許可が無いと座れません。入ってきた客の座る席を一人一人指定するからです。またおねえさんが聞いてくるまで注文はできません。客が勝手に注文しても無視されます。狸小路の「富公」を思い出しました。「富公」は自らラーメンを作る頑固おやじでしたが、この「加賀屋」では注文を取り配膳をするお姉さんが店の支配者なのです。厨房で調理を担当するのはおそらく彼女のご両親なのだと想像しましたが、ご両親への態度も驚かされました。調理の音が大きいので、厨房に客の注文を伝える声が大きくなるのはどの店も同じですが、おねえさんは声が大きいだけでなく言い方がきついのです。「大カタだって言ってんだろ!何回も言わせんなよ」。「定食だよ! 定食。何聞いてんだよ」。相手が自分の親だから遠慮がないのか、家庭的に何かあったのかは分かりません。おねえさんは客によっても態度が変わります。好きなタイプの客がいたのかどうかは分かりません。しかし嫌いなタイプの客に対しては露骨に不快感を示します。会社にぽっちゃり体型で坊ちゃん刈り、眼鏡のいわゆるオタクタイプの後輩がいました。良くしゃべる人間で、慣れてしまえばどうということはないのですが、初対面だと「何、こいつ」と思われるタイプです。彼を初めて「加賀屋」に連れて行った時、席に着くと彼はいつものように割と大きめの声で我々に話しかけ始めたのです。するとお姉さんがテーブルにやってきて、いきなり「あんた、うるさい。黙ってて」と言いました。お姉さんがテーブルから離れた後、彼は小声で「なんだよ。別にいいじゃないか」とつぶやいた瞬間、振り向いたお姉さんの彼に対する視線が今でも忘れられません。その後我々が団体で入店しても、彼だけは別のテーブルに移されるようになりました。我々と同じテーブルだと彼のおしゃべりが始まるからです。私は嫌われてはいなかったようですが特に好かれていたとも思えません。お姉さんは注文を受けると、メモを取りながら読み上げます。言葉で伝えると同時に厨房にメモを渡します。「定食2、うちカタ1、大カタ1」など、伝え方もシンプルです。注文を取りに行った時、「えーと、何にするかな」などと言う客も嫌いのようで、無視して次のテーブルに行きます。定食とラーメンの大・小しかメニューに無いのです。悩む方がおかしいと私も思います。私はいつも大カタを頼んでいました。ラーメンの大盛麺固めという意味です。おねえさんは、「はい、大カタ1」と復唱しメモを取ります。こちらに目を向けることはありません。オタク君のテーブルに行くと、お姉さんはまず彼をジロリと睨みます。彼が注文してもお姉さんは復唱しません。メモは取っていたと思うのですが、そのまま背を向けてしまうのです。不安になった彼は、もう一度注文を口にし「お願いします」まで付け加えるのですが、それでもおねえさんは無視なのです。一応注文は通っていたようですが、とても客に対する態度とは思えません。こんな扱いを受けたら、私ならもう二度とこの店には行きません。しかしオタク君は、昼になって「俺たち加賀屋行くけど、どうする?」と聞くと「僕も行きます」と答え、ついてくるのでした。あんな扱いをされてよく行くよなあ、と我々は思うのです。しかも彼はさほどラーメンは好きではなかったはずなのです。とても不思議でした。ところがある時、オタク君とお姉さんが普通に会話しているところを見てしまったのです。どうしてしまったのか、何が起こったのか、私は彼に問いただしました。するとオタク君は「夜、店に飲みに行っただけですよ」と答えたのです。自分だけ冷たい態度を取られることに納得できなかった彼は、勇気を出して一人で夜の「加賀屋」に行ったのです。夜は居酒屋でラーメンはやっていません。彼が店に入るとまだ他の客は誰もいませんでした。おねえさんは「あんた、何しに来たの」という顔で彼を睨みつけてきましたが、彼は臆することなくビールとツマミを頼みました。その後無言のまましばらく時間が経ち、オタク君に言わせると、お姉さんの方が沈黙に耐えられなくなり話しかけてきたのだそうです。話題は他愛のないものだったそうですが、だんだんと会話が続くようになり、意気投合とまではいきませんが普通に顔を見て会話ができるようになった、と言うのです。その後も一人で何回か夜の「加賀屋」に行ったそうで、オタク君によるとおねえさんは人の好き嫌いが激しく、本当は店などやりたくないそうです。居酒屋でも特に愛想が良いわけではなく、一部の顔なじみとしか話をしません。例外はおねえさんの同級生と思われる女性の一団が来ることがあり、その時だけは楽しそうに会話し笑ったりもするそうです。私は驚くと同時に感心しました。おねえさんにではありません。オタク君の行動力と相性の良くない相手に一人で会いに行く勇気です。オタク君には営業マンの資質があると判断した私は、経営陣に彼を推挙しました。「加賀屋」はその後閉店してしまいました。翌年の春オタク君は営業部に異動となりました。

 

「韓国のこと 3 離れの客とお母さん」

私が初めて観た韓国映画は「離れの客とお母さん」と言う映画でした。私はまだ学生で、休日の午後に当時のNHK教育テレビで放映されていたのをたまたま観たのです。アジア映画の特集か何かだったと思います。夫を亡くし旧家で祖母や母、そして娘と暮らしている主人公の女性の家の離れに、夫の友人が滞在することになり、2人の恋心が描かれるのです。最初は他のことをしながら何となく観ていたのですが、そのうちに引き込まれるようになっていきました。女性にはオッキという一人娘がいます。オッキは写真でしか父親の顔を知りません。離れに滞在している父の古い友人は美術教師をしている絵描きです。離れに出入りしているうちに優しい美術教師のことが好きになったオッキは、母親と美術教師の間を伝書鳩のように行きかい、2人をくっつけようと画策するのですが、その様子がとても可愛らしいのです。本当はさほど好きでもない卵料理を美術教師に好きだと言わせ、それを母親に伝えます。彼のことをひそかに慕っている母親はそれを聞いて毎日卵料理を作ります。おかげでひんぱんに卵売りが家にやってくるようになり、あまりガラの良くない卵売りはその家の家政婦を口説き始めます。その家の女性は全員未亡人らしく、家政婦もまた未亡人なのです。その口説き方がユーモラスに描かれます。離れのある家に住み、夫を亡くしても通常の生活が送れる上流階級の恋愛と、庶民である卵売りと家政婦の恋愛。その対比も面白く感じました。美術教師は勇気を出して自分の思いを母親に伝えますが、彼女が応じることはありませんでした。ラストで街を去る美術教師の乗った列車を遠くから見送る母親とオッキのシーンがあります。同じころ、玉子売りと家政婦もまた新しい人生のスタートで街を出ていくのですが、家政婦は大きなお腹を抱えています。

1961年の製作で当然白黒ですが、韓国映画に興味のある方には観ていただきたい作品です。とにかくオッキが可愛いのです。その後韓国の映画やドラマに触れる機会は全くありませんでした。話題になった「冬のソナタ」は観ましたが、周りの皆さんほど私は感心しませんでした。ところが、たまたま深夜に放送されていて偶然第一回を観てしまってから完全にはまってしまったドラマがあったのです。「バリでの出来事」というそのドラマは観始めると止まりませんでした。これはまずいと直感した私は、話題になっていた他の韓国ドラマを観ることを止めました。観たのはかなり昔のことですが、記憶に残っているのは男優の顔のアップシーンが多く、男優たちの顔が美しいことでした。またジャージャーメンを食べるシーンが多いことにも驚きました。そのことをPさんに言うと、ジャージャーメンは庶民の食べ物と認識されており、食材や食品の大幅値上げの時期にも、ジャージャーメンだけは値上げしないよう政府から通達があったというのです。本当かと思いましたが、Pさんは噓を言う人ではありません。バレンタインデーにもホワイトデーにも縁が無かった人たちは、一人でジャージャーメンを食べて自分を慰めるブラックデーという風習もあるそうです。

ドラマの話に戻ります。「天国の階段」など話題になった作品も少し観ましたが、別の場所のはずなのに景色が同じだったり、通行人のエキストラで同じ人が何回も出てきたり、全体的に作りが安っぽく、観るのを止めてしまいました。社内に韓国ドラマに完全にはまっている男性社員がいて、彼の一番のお薦めは「砂時計」というドラマでした。彼の話を聞いてとても興味をそそられましたが、全40話近いと言われて断念せざるを得ませんでした。彼はレンタルビデオで借りて全巻観たのだそうです。当時は仕事が忙しく夜は社内外との飲み会が入り、帰宅してもニュースを見るだけで連続ドラマを観る余裕などありません。日本のドラマすらほとんど観ることはありませんでした。その後は韓国映画やドラマとは一時完全に縁が無くなったのですが、韓国との合弁会社の担当になってから、たまにですがBSで韓国映画を観るようになりました。本格的に勉強する気力も能力もありませんでしたが、韓国語に触れる機会を増やそうと思ったのです。その頃観た韓国映画はなかなか面白く、記憶に残っているのは「高地戦」という戦争映画です。上官がどんどん戦死してしまい、ワニ部隊の指揮を執ることになった少し病的な若い中尉が、上官として戦闘の前に部隊員にスピーチをします。「生まれたばかりのワニはそのほとんどが魚や他の動物に食べられてしまう。しかし生き残ったワニはその沼の王となる」というセリフがあったような気がします。その中尉も戦死してしまいます。また「私の頭の中の消しゴム」では、もう回復の見込みがないことが分かっているはずなのに、友人や縁のある人たちが一人一人彼女の前で彼女との思い出を再現するのです。ラストシーンでウルウルしてしまいました。「超能力者」という映画では、イム代理という気のいい青年が、偶然出会った超能力者と闘うというストーリーです。映画の内容としては大した作品ではありませんが、事故で失職した自分を雇用し「代理」という肩書まで与えてくれた社長に恩義を感じ頑張る主人公は魅力的です「代理」という肩書は、韓国では少ない手当で長時間働かされ、権限はないのに責任だけ負わされる、その象徴のような肩書なのです。とても面白く感じました。その後山田孝之と藤原竜也で日本版が作られ、私も偶然観る機会がありました。山田孝之の肩書が代理だったかどうかは記憶がありません。しかしヒットした映画やドラマは、日本と韓国ではお互いにリメイクし合っていることに気づきました。たまたまですが「hope」と言う日本のドラマを観ていて、割と良いドラマだと思いました。オリジナルは韓国だと知ったので、韓国に行った時Pさんにその話をしたのです。Pさんは「hope」もネットで観ていました。「それはミサンという韓国ドラマです。社会問題になるくらい話題になりました。日本版も悪くありませんが、大事なシーンや重要なセリフがカットされているように思います。絶対後悔させないのでミサンは必ず観てください」。Pさんからはそう言われたのですが、当時は観る機会はありませんでした。本当に久しぶりの韓国ドラマは、妻から超オススメだよと言われて観始めた「愛の不時着」です。とても面白い上に、ネットフリックス配給のせいでしょうが、たっぷりお金がかけられていて昔のような手抜きシーンが全くないのです。会社をリタイアして時間がありました。とても面白かったのですが、一話の時間が長く話数が多いのです。韓国ドラマには観始める勇気、観続ける気力、そして時間の余裕が必要であることを痛感しました。現在なら「ミサン」を観る時間の余裕はあります。しかし観始める勇気がなかなか湧いてこないのです。映画は機会があれば観ることがあり、「チング」やソン・ガンホ主演の「タクシー運転手」、「パラサイト 半地下の家族」は強く印象に残っています。

当時韓国の映画を観ようとしていたのにはもう一つ理由がありました。私は仕事で韓国へ行っていたのです。観光ではありません。ビジネスでの話し合いは常に意気投合するわけではなく、お互いの意向や意見の食い違いが明確になり、話し合いが物別れに終わることもまれではありません。そのままでは険悪な雰囲気になってしまいます。そこで会議のブレイクには話題を変え、食べ物やエンタテイメントの話をするようにしました。自分の好きな韓国の食べ物や映画・ドラマの話をするのです。それぞれ好みが違うので相手と意見が一致するわけではありませんが、誰しも自分の国の食べ物や映画が誉められて悪い気はしないものです。私が好きなもう一つのエンタテイメントは歌、すなわちカラオケです。韓国ではノレバンと呼びます。

K社の創設者であるSeoさんが来日した際に、唯一歌える日本語の歌です、と言って歌ってくれる曲がありました。千昌夫の「北国の春」でした。あまり上手とは言えませんでしたが、一生懸命に日本語の歌を歌う彼の姿には大いに好感を覚えました。私も若い頃からカラオケ好きだったので、お返しに韓国の歌が歌えたらいいのにとは思いましたが、その頃知っている韓国の歌は2曲しかありませんでした。「釜山港へ帰れ」と「黄色いシャツ」です。「釜山港へ帰れ」はチョー・ヨンピルの歌で日本でも大ヒットしました。「黄色いシャツ」には少し解説が必要になります。特に日本で流行っていた記憶はありません。若い頃に司馬遼太郎さんの「故郷忘れじがたく候」という作品を読んだことがあります。1966年、名陶工の第十四代沈寿官氏が祖先の国韓国を訪れ、ソウル大学で講演を行います。沈寿官氏の祖先は豊臣秀吉の慶長の役のとき、薩摩の島津軍につかまり日本に来ました。一族は薩摩藩に重用され、世界的にも評判の高い薩摩焼を作り上げたのです。韓国に来て以来多くの若者たちから日本統治下の36年間のことを指摘された沈氏は、講演で「あなた方が三十六年をいうなら 私は三百七十年をいわねばならない」と結びます。若い韓国はいつまでも過去にとらわれず前を向かねばならない、という意味を込めた言葉に対し、学生たちは罵声を浴びせることも拍手を送ることもしませんでした。代わりに「黄色いシャツ」を大合唱したのです。その光景を司馬遼太郎氏はこのように記しています。「学生たちは沈氏へ贈る友情の気持ちをこの歌詞に託したのであろう。歌は満堂をゆるがせた。沈氏は壇上でぼう然となった。涙が、眼鏡を濡らした」。これを読んで感動した私は、黄色いシャツとはいったいどんな歌なのだろう、ずっと気になっていました。就職してから、この歌を知っていた先輩に教えてもらいました。聞き覚えのある曲でした。しかし「釜山港へ帰れ」はトラワヨプサンハンエ、「黄色いシャツ」はオチョンジ ナヌンチョアしか韓国語の部分が無いのです。できればオール韓国語の歌を歌いたいとずっと思っていました。私が韓国へ行った時にカラオケを歌うようになったのは2010年以降です。前にお話ししたように、酒の飲みすぎ防止のため二次会はカラオケをリクエストしていたのです。ところが韓国の人たちが日本語の歌をとても上手に歌うのに驚かされました。特に中島美嘉の「雪の華」と尾崎豊の「アイラブユー」は韓国人にも大人気でした。2014年から韓国専任になった私は長年の懸案をPさんに相談しました。「Seo会長が北国の春を歌ってくれるので、私も韓国語の歌を1曲覚えたい」と言うと、「それならSeo会長が大好きな歌があります。それを覚えましょう。歌ってあげるときっと喜びます」と答えてくれました。その歌はノ・サヨンという女性歌手が歌う「マンナム」という歌でした。聴かせてもらうと優しいメロディと「私たちの出会いは偶然じゃないよね」という歌詞が気に入り、早速覚えることにしました。ハングルは全く分からないのでPさんに歌詞をカタカナで書いてもらい、あとはひたすらCDを聴いて覚えます。カタカナの発音と実際の歌の発音表現は当然違います。ひたすら聴いて覚えるしかありません。頑張って覚え、いよいよSeo会長の前で披露する機会がやってきました。しかし、予想外の反応だったのです。それなりにうまく歌えたと思い、周りから拍手ももらったのですが、立ち上がったSeo会長は少し怒った顔で私からマイクを奪い、もう一度「マンナム」を入れさせました。そして自ら朗々と歌い始めたのです。「これは俺の歌だ。勝手に歌うな」ということなのです。大失敗でした。Pさんはとても恐縮して「申し訳ありません。至急他の曲を探します」と言ってくれましたが、私は「もういいよ」と答えました。覚えるのに苦労したのでもう十分という思いと、Seoさんの前で歌わなければ良いのだという気持ちがありました。実はSeo会長のいない席で歌うと、意外な反応があったのです。それは「日本人がこの歌を知っているとは、歌うとは思わなかった」と、ある意味感心してもらえるのです。それは悪い反応ではありませんでした。

私と夕食に行くとその後は必ずカラオケに行くという噂がK社内に広がったらしく、私の仕事とは直接関係のない部署の若い社員も夕食に参加するようになっていました。場を盛り上げたい時に私が歌うのはDJ OZUMAの「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」です。画面に表示される歌詞は日本語ですが、若い韓国人たちは「バンスミ バンス」と一緒に歌いながら踊ってくれるのです。この曲は今でも偉大な名曲だと思っています。原曲は「Run to you」という韓国の曲、元はボニー・Mの「ダディ・クール」と聞きました。ボニー・Mには「怪僧ラスプーチン」というダンサブルな名曲があります。かなり昔ですが、「ジンギスカン」が小学校のダンスの課題曲になったと聞き、なぜ「怪僧ラスプーチン」はならないのかと不思議に思ったことがあります。もし小学校のダンス指導担当の方がこれを読んでいたら、ぜひ「怪僧ラスプーチン」を聴いてみてほしいと思います。

話がそれてしまいました。カラオケで親しくなった若い社員とお互いの国のエンタテイメントについて話をすることもありました。「日本では少女時代よりKARAの方が人気があると聞いた。なぜなのか?」という質問を受け、「日本ではアイドルはまず親しみやすいことが求められる。少女時代は何となく気取っていて冷たい印象がある。KARAは全員が日本語を話す上に愛想が良い。人数も少なくて覚えやすい」、いかにも芸能通であるかのように答えた記憶があります。思い出すと恥ずかしい限りです。韓国では少女時代の方が音楽性もダンスもKARAよりレベルが上と認識されているそうです。

2016年、これが最後の韓国訪問になると思った私は、K社との食事の席で「離れの客とお母さん」のことを話題に出しました。映画のDVDが欲しかったのです。すると、映画を観たという人は誰もいませんでしたが、全員がこの作品のことを知っていました。「ほとんどの韓国人がこの話を知っている。教科書にも載っているくらい有名だ」と言うのです。私は中古のDVDショップに行きたいと申し出たのですが、「こちらで探しておくから」と言われ、お任せすることにしました。結局DVDは手に入れることはできませんでした。DVDショップ自体があまりないのだそうです。韓国では、DVDをレンタルして映画を観る習慣はほとんどなく、多くはネットで観るようなのです。少しがっかりしていた私に、金浦空港に見送りに来ていた一人の社員が、お土産だと言ってUSBメモリーを渡してくれました。帰国して自宅でパソコンにつないでみると、なんと「離れの客とお母さん」の映画が入っていたのです。どうやって手に入れたかは不明ですが、まあ個人で楽しむのはありなのでしょう。当然ながら日本語の字幕は付いていませんが、画像はとても鮮明でした。40数年ぶりに観ることができとても懐かしく思いました。やはり名作です。NHKは放映の権利を持っているのでしょうか。もし持っているのならぜひテレビ放映して多くの方に観ていただきたいと思います。観直してみて、改めてこれはプラトニックながら大人のラブストーリーなのだと受け止めました。韓国ではこれを教科書に載せているそうです。どんなふうに記載されているのか気になるところです。