ビキニのネタから徒然に語るのですが、
ヨーロッパと日本では <装う行為> についての意識が違うな、となんとなく感じるサラマです
どちらがいいって話ではなくて、単に違う、という話ですよ。
私、子供の送迎時にyoutube流し聴いているのですが、最近興味深かったのは日本在住のアラサーアメリカ人男性二人が考察していた日本人男性のファッションについてのトークです。
「アメリカ人男性は髭ヅラが多いけど日本人男性は髭生やしてる人が少ない」という事実から、彼らは「アメリカ人は<俺の>男性らしさをみてほしい。髭生やしたり、身体を鍛えたり、<俺の>、俺自身の魅力(男性性など)をアピールしたい人が多い」のに対して、日本人男性(彼らの付き合いのある男性が考察対象)とは「自分の纏う服装や持ち物などを周辺情報を見てほしい、そこからセンスや財力といった情報を読み取ってほしい人が多いように見える」とコメントをしておられました。
当然、日本人男性みんながそうだなんて仰っておられません。
彼らが付き合う東京のアラサー層の男性たちから得た印象を語っているだけ。
でも、サラマ、なるほどこれは面白い分析で頷けるな、と思ったんですよね
だってサラマも、日本人女性には、装いを「自分に似合うかどうか」「自分が好きかどうか」「自分のこういった魅力を引き立たせるか」という〈対自分〉の観点選ぶわけではなく、「周りからこう思われたい」という〈対他者〉の観点から選ぶ方がたくさんいらっしゃる印象を抱いているのです。
ヨーロッパのオシャレな女の人っていうのはTPO(TimeとPlaceとOccasion)をわりとシビアめに見極めている
対して、日本の女の人は、TPOというよりは、その場にいる自分の仲間、言ってみればF(Friend)とかG(Group)から外れないことを一番に心がけておられる方も多いようです。ご本人でそう語る方がそこそこいらっしゃるってことは少なくない数の人がそこを気にしていらっしゃるのではないかと推測します。
youtubeでアメリカ人男性たちが日本人男性について指摘したように、もしかしたら日本人女性にも、自分の装いを選定する動機が、実体としての自分を飾るというよりも、他人に自分の装いから間接的にこういう情報を読み取ってこう評価してほしいという期待に絡んでいるところがあると捉えてみると合点がいく部分もあるのでした。
「周りにこう思われたいからこういう装いをする」方が大勢いらっしゃるとして、サラマ、その考え方自体を別に良いとか悪いとかは思わないんですよ。
衣服ってかつては地位やステータスを視覚的に伝える記号として機能していた時代があったわけですし、装いというものが必ずしも「いまここにあるこの自分の肉体を装飾する」行為である必要はなく、「自分の欲しい評価へ誘導する」手段として利用するのも、なるほどそれはそれで高度な「お察し力」をベースに練り上げられた日本らしいテクニックだと評価できる気がします。
ただ、
「こういうふうに判断されたい」という動機から装いを選ぶ少なくない数の日本女性に比較したら、常にリアルな自分自身を目が向いている少なくない数のヨーロッパ女性というのは「老いていく」自分を直視できているな、とも、思うわけです。
出産してお腹の皮膚が伸びたり、おっぱいやおしりが垂れてきたり、代謝が落ちて太ったり、関節がいたくなったり、腰が曲がったり。
そういったことを「自然現象」で誰の身にも降りかかる「当たり前のこと」だと捉えている空気感が、例えば私が住んだフランス、そして今回訪れたイタリア、といった、世界のオシャレ番長を名乗るような国々には確実にあるとサラマは感じるのでした。
老いていくことを当たり前として受け入れているこの空気感はなにによって醸成されるのかな、と、考えてみた時に、それは、やはり、〈対自分〉の観点で装いを選びとってきたマインドセットに依るのかもしれない、とか思うんです。
だってやっぱり自分から目をそらさないということは、朽ちていく自分の姿を認めることなわけよ。
〈対自分〉の観点でのおしゃれセンスの先に、おばさんやおばあさんのビキニを当たり前として夏を楽しむ様子があるとサラマは思う
TPOを外す人を目の当たりにした時の感覚を「違和感」という言葉で表すとしたら、やはり「近しい関係の人」と「海で」「楽しんで過ごす」時に、今の時代では水の抵抗を受けず身体に一番負荷がかからない一番違和感が生じない恰好が水着なわけで。
人間としていろいろなステージを通過してきた生身の身体が若い頃と同じ形状を維持しておけるわけがないことを「当たり前」の現象として受け止めているからこそ、人生の中盤以降というTPOにてビキニ、という構図がヨーロッパでは許容されるような気がするんですがどうでしょう。
なんかまとまりないですね、失礼しましたあ