2024.3.30
岡山県倉敷市 御朱印めぐり⑤ です
続いてお参りしたのは日本第一熊野神社です
📍倉敷市林684
駐車場に車を停めてお参りへ
右手には立派な三重塔があります
よく調べておけばよかったのですが、
こちらの鳥居をくぐった先…
左手に少し写っている建物が御拝殿でした
不勉強過ぎました…
社務所かなと思って手水舎を主役にした写真しか撮ってませんでした
気を取り直して
こちやは五流尊瀧院 三重塔です。
本瓦葺で高さは21.5m
1820年に再建されたものなんだそうです。
蘇りの橋を渡って進みます
橋を渡るとすぐに立派な狛犬さまが
そしてその奥にはたくさんの御本殿が
お参りした時はこちらが御拝殿だと思っておりました
左から第三殿・第一殿・第二殿
奥のカバーがかかっているところ
こちらに第四殿・第五殿・第六殿があります
境内の様子です
2024年と書かれてますね
■日本第一熊野神社
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➵御祭神
・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
・伊邪那美命(いざなみのみこと)
・家都美御子神(けつみみこのかみ)
・速玉之男神(はやたまおのかみ)
➵御由緒
西暦634年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。
紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。
ところが、役行者が民衆を惑わすという罪で伊豆大島に流され、高弟たちは紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じて瀬戸内海に逃れ、四国九州に浄域を求めた後、児島の柘榴浜に上陸し、熊野道といわれている山道を通り、701年3月3日、福岡の里と呼ばれていたこの地に鎮座祭典をし、それが、現在の春のお祭り(5月18・19日)です。
740年、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。現在地に社殿を建立したのが始まりです。
孝謙天皇紀(749-758年)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、当社もその号を称することになりました。
承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、その第四皇子で、鎌倉幕府第四将軍になる候補であった冷泉宮頼仁親王は、この地に配流されました。
また、弟の桜井宮覚仁親王は乱を恐れ、この地に赴任し尊瀧院の住職となりました。
公卿山伏といわれる由縁です。
応仁の乱(1469年)で開幕となった戦国時代の兵火のため、社殿をことごとく焼失してしまいました。
1492年、社殿は天誉長老により再建されました。国の重要文化財に指定されている第二殿が、その時建立されたものだといわれています。
以後、復興を見ますが、次第に社領は減少し、中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けましたが、児島一円の領地はわずか三ヵ村に減ってしまいます。
西暦1600年代半ば、池田光政公により、吉備津彦神社の大守家から神官が赴任され、祭祀を専らにさせるなど、あつい保護の下に明治に至りました。
1868年、神仏分離(神仏判然令)により、現在は、宗教法人熊野神社、宗教法人修験道五流尊瀧院と呼ばれています。
2003年9月21日、所有の熊野神社長床拝殿を焼失しましたが、五流尊瀧院の寛大な配慮により、再度、氏子や近在の崇敬者により拝殿が再建されました。
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無人お守り売り場に入ってびっくり
たくさんの体関係のお守りが
体の部位だけではなく、
シナプスお守りや糖尿病のお守り…
これはすごい
睡眠安定守りは売り切れでしたよ
こちらのお守り
「月曜から夜ふかし」で細か過ぎるお守りとして取り上げられたんだとか
…今回はお参り前の勉強不足で
セロトニンお守りいただけばよかったなぁ
死んだ人も生き返ると言われる熊野信仰の甦(よみがえり)の思想…
現在もその考え、風景を残しているこで病気祈祷を受けられる方が多いんだそうです
御朱印もお守り売り場でいただけます
日本第一熊野神社でいただいた御朱印はこちらです
書き置きのもののみいただけます
イラストも手書きで微妙に1枚1枚違います
素敵な御朱印です
境内社の八尾羅宮の御朱印もいただけますよ
八尾羅宮は「いじめ除け」の神社なんだそうですよ
不勉強すぎてきちんとお参りできてないので、
もう一度お参りしたいと思います
岡山県倉敷市 御朱印めぐり⑥ に続きます