小学校低学年の頃、自宅屋上から転落した。
屋上が真っ平らだったので、
凧上げをしていた。
もちろん、屋上へ上がるなと親に言われていたけれど、屋上へ上がるハシゴには子供が登れないような細工をしてあったけれど、屋上で凧上げしたくて仕方なかったのだと思う。
とにかく、はじめはその場で立って上げていたけれど、たぶん風が弱かったのでしょう、凧を見ながら後ろ向きに走り出してしまった。
当たり前だけど、フッと身体が軽くなって、次の瞬間、地面に背中から落ちた。
でも、何もなかった。
それは、畑の畝の上にちょうど落ちたから。
庭に母が作っていた畑のおかげで命拾いした。
でも落ちた時、自分の命がどうのこうのと
考えたりはしなかった。
それよりも、屋上で遊んでいたことがバレないよう、つぶれた畝を手でもと通りに直しておいた。
晩年の母に話したら
腰を抜かさんばかり驚いていた。
この件に関して
「死んでたかも」なんてことは
もう少し大きくなってから考えたこと。
「ラッキーだったな」と感じたのは
もっと大きくなってから。
この時は幼かったから、
生きる目的だとか使命だとか
そんなことは考えもせず、
ただただ遊びたかった。
けれど、あとから考えたのは、
「ラッキーだった」ということ。
畝と畝の間に落ちていたらとか、
畝のないところに頭が落ちていたらとか、
畝に竹棒が立っていたらとか、
そんなことが全くなくて、
頭も身体もちょうど畝の上に落ちたので
無傷で済んだ。
18の事件とこの事件のことだけ考えても、
自分のバイオリズムで言う
「死中に活を得る」「死なない」って
たしかに当たってるなと思う。
知らないうちに死んでたと言うのは、
自分はいいけれど
残された家族にはたまったものではない。
死んでしまえば幸せも不幸せもないと思うので、
命あってこその幸せだと思っている。