うまうまセブンのブログ -12ページ目

うまうまセブンのブログ

ブログの説明を入力します。

永遠の0/百田尚樹

{2DE921C2-E50B-4E8F-A01A-854A8A8D075C:01}
先日の日本アカデミー賞で、作品賞ほか8部門で最優秀賞を受賞した「永遠の0」。
百田尚樹の原作は、単行本と文庫本合わせて販売累計500万部を超えようとしているそうだ。
日本アカデミー賞受賞を記念して、今更ではあるが「永遠の0」を取り上げてみたい。


最初に断わっておくが、「永遠の0」はフィクションである。ただし、小説と言えるかというと些か疑問ではある。

この作品の主人公は、間違いなく宮部久蔵である。しかしながら、彼の一人称なる文体は存在しない。第三者によって、その人となりが語られるのみである。
文庫本で575ページに及ぶ本作のおよそ9割が、主人公宮部久蔵を知る戦友、部下、或いは教え子らによる回顧録(インタビュー)という形式を採っている。
勿論こういう小説もたくさんあるし、それがダメだと言っているわけではない。
だが、私は太平洋戦争を体験していない。故にラバウルだの、ガダルカナルだのという地名を目にし、たとえ聞いたとしても一向にその回顧録の情景を頭の中に構築できない。
ましてや、日本とアメリカが戦争をしていたことすらも知らない今の若者が、果たしてこの回顧録をどこまで理解することができるのだろう?
小説とは、その文章を一片一片自分の頭の中で組み立てて創造し、そして昇華していくものである。
それがこの作品では儘ならない。そんな焦燥感もあって、単なるノンフィクションの戦争手記としか捉えることができず、はたしてこれは小説なのか? という疑問に打ち当たってしまうのである。

かつての宮部久蔵を語るのは、長谷川、伊藤、井崎、永井、谷川、岡部、武田、景浦、大西、大石の10人。しかし、景浦と大石を除く殆んどが同じ語り口調であり、しかも重複する場面の記述もあって、読み手としてかなり混乱し退屈に感じたのも事実である。
これが、最初から戦記であると知った上でのことなら構わないのだが、いざエンタテインメントのフィクションを楽しもうと思って読み進める者にとっては、些か苦痛に違いない。
もう少し登場人物の色分けと、絞り込みをしてくれたら良かったのだが、いかんせん長すぎる。。。私の如き読解力の乏しき者には何とも手強い作品と言わざるを得ないのである。

とはいえ、泣かせどころはしっかりと心得ているのは流石だ。思わずグッとくる場面もかなりある。
散々貶した後で申し訳ないが、主人公の人となりが徐々に明らかになっていく過程のワクワク感や、全てが明かされた時の壮快感。確かに佳作だと思う。

しかし、舞台設定が太平洋戦争中というだけで、さほど目新しいプロットではないということもまた事実。洋の古今東西を問わず、似たような小説や映画も無くはない。

今更、やれ特攻美化だの、軍部批判だの、語り尽くされた感のある本作品の内容についてとやかく言うつもりはないが、小説に限らず、映画やテレビドラマしかり、戦争を題材にした作品には誹謗中傷は避けられない現実がある。
それよりも、この作品を読んで日本が敗戦国であるということを再確認した者が大勢いるであろうことは、極めて有意義ではないだろうか?
二度と起こしてはならない過ちに気づくと同時に、平和というものがもたらす素晴らしさをきっと実感させられるはずだから。


さて、実を言うと私の母方の祖父も軍人であり、太平洋戦争で戦死している。
この作品を読むまで、祖父の人となりを誰かに聞かされたことは一度もない。また、聞こうと思った事もなければ、聞いてはいけないものだとも思っていた。
考えてみれば不思議である。母の父、僅か二親等の間柄なのにである。
祖母は再婚こそしなかったが、私はまさに、本作の健太郎と似たような境遇ではないか。
祖母は既に亡く、母も寝たきりで、祖父のことを知る者は限られている。
何故もっと早くに調べようとしなかったのだろう。
私ももう若くはない。良くも悪くも自分のルーツを知るには良い機会かもしれない。

そういった意味で、この作品に出会えた事は実に意義のある事だった。


{2FF9EB00-1C5F-41EF-AAD0-1C3CD5675053:01}


ところで、冒頭でも記したように、映画「永遠の0」もかなり評価は高い。
特撮の見事さもさることながら、この長い原作をアレンジも加えて、実によく纏め上げている。山崎貴監督の手腕に脱帽である。
また主演の岡田准一も素晴らしい。
それにも増して、元ヤクザの景浦を演じた田中の存在感はどうだ! これぞまさに助演男優賞といった名演ではないだろうか? 候補となった三浦春馬には気の毒だが……
まぁ所詮日本アカデミー賞など、マスゴミの話題作りの一環だろうから……

ただ、健太郎が合コンの席で「テロと特攻の違い」についてやり合う場面は必要無かったようにも思う。姉慶子の結婚云々を一切排除したように。

惜しむらくは、原作ではチャプターの副題ともなっている「ヌード写真」のエピソードが取り入れられなかったことだ。
宮部が、米軍兵の胸ポケットに写真を戻す場面は、ラストシーンと一対となってこの小説を締めくくる重要なファクターの一つとなっているのだが。。。
ただ、映画の方のラストシーンも自分的には嫌いではない。そしてこのラストシーンならそれもアリかなと納得するとしよう。


終戦70年を迎える今年。「永遠の0」という一編を、映画でも原作でもどちらでもいい。出来れば両方、是非ご覧頂きたい。
きっと何か心に響くものがあるはずだから。