霊達からの指導:物質的な慈善と道徳的な慈善

九、「お互いに愛し合い、他人には私達がして欲しいと思うようなことをしてあげましょう。」どんな宗教も、どんな道徳もこれら二つの考えに要約されています。これらがこの世で守られたなら、皆が幸せになるでしょう。そこには反感、不快は存在しないでしょう。更に、貧困もなくなるでしょう。なぜなら、裕福な者の食卓の贅沢から、多くの貧しい者が食事をすることができるようになるからであり、私が最後の人生の間住んでいた薄暗い街角には、何もが不足し、惨めな子供達を引き連れた可哀想な女性達をもう見ることもなくなるでしょう。豊かな者たちよ、このことを少し考えてみて下さい。出来る限り不幸な者たちを助けてあげて下さい。神がいつの日かあなたの行った善に対する償いを与えてくれるように、また、あなた達が住む地上から出て来るとき、あなた達に対して感謝する霊達が並んであなた達をより幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対し与えて下さい。私の最後の人生において、役に立つことができた相手と、死後の世界において再会したときの喜びをあなた達も知ることができなたら。ですから、あなた達の隣人を愛して下さい。自分達を愛するように愛して下さい。なぜなら、不幸な者を寄せ付けまいとする時、あなた達は過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかも知れないのだということを既に知っているからです。そうであるなら、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知ったとき、どんな失望を感じることになるか考えてみて下さい。物質的にはなんの負担もなく、誰にでも行うことができるのですが、実践することが最も難しい道徳的な慈善というものがどういうものかよく理解して欲しいと思います。道徳的な慈善とは、生きる者達がお互いに我慢し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなた達が現在肉体を持って生まれている世界においては非常に希に行われていることです。私の言うことを信じて下さい。自分よりも愚かな者には話しをさせておき、自分は黙っていることが人間にとって大きな利益をもたらすのです。人をひやかしてばかりいる人の口から漏れるひやかしの言葉に対し耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みをうかべて見下す人達を無視すること、は一種の慈善なのす。彼等は多くの場合自分達があなた達よりも優れていると誤って思いこんでおり、唯一の真の世界である霊の世界においてはあなた達よりも劣っていることも珍しくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら、他人の行う悪に対して関心をもたないことは道徳的な慈善であるからです。だからと言って、この慈善は他の慈善の妨げとなってはいけません。故にあなた達の同胞を軽んじるようなことがないように特に注意して下さい。私があなた達に既にお伝えしたことを全て覚えておいて下さい。今日あなたが拒む一人の貧しい者は、今日あなた達より劣った条件におかれた過去においてあなた達にとって大切であった誰かなのかもしれません。地上において幸いにして幾度か助けることができた、地上で貧しかった人と、私はこちらで会うことができましたが、今度はその人に私が助けを懇願することになりました。貧しい者や、病気の者を拒む前に、私達は皆兄弟なのだとイエスが言ったことを覚えておいて下さい。さようなら。苦しんでいる者たちのことを考え、祈って下さい。(シスタ―ロザリア、パリ、一八六〇)

今日のレッスン

地上にいる限られた時間内に、自分と縁があった困っている人にきちんと手を差し伸べられるか。
この世で縁あって関わり合う人、すれ違う人、すべての人が過去生でも出会ってたと思っていいと思います。
自分に助けてあげられる余裕があるのに、きっと誰かがやってくれる、私は見て見ぬ振りしよう。
なんて思わないでください。
もしかしたら助けを求めているその相手は、過去生であなたをとても虐めたお父さんお母さんかもしれません。
だから今世でその後悔を慰めてもらう為にその人はあなたに助けてもらえる場面を設定してきて惨めな姿をしているという事もあります。
生きている間にすれ違ったあのホームレスは実は過去生で親の魂だったとか、自分が死んだ後にその事実を知ります。
その時になんで手を差し伸べてあげられなかったんだろう。なんで水だけでもあげることができなかったんだろう。って後悔しないように…。
相手を目に映る姿で見るのではなく、相手を魂として見る、なんでこの世で縁があったのか、何をその魂と解消しないといけないのか、答えはわからなくても、相手がされて喜ぶ行いさえすればそこに愛が発生して魂同士のわだかまりも消える事と私は信じています。



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