ブログ引越しのお知らせ

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ブログ読者の皆さまご無沙汰しております。

更新がままならない状態だったのにも関わらず
読みに来てくださっている方もいて大変光栄です。

ありがとうございました。


今までより
スピリティズムのメッセージを、
そしてそのスピリティズムを基盤に活動する私が所属する団体の活動を今後色々と発信していくことで
誰かの気づき、助け、社会の為になることを願って
ブログをリニューアルすることにしました。


こちらのブログは勉強の為に利用してくださっている方もいるのでそのまま残しますが、
ぜひ新しいブログの読者登録もしてくださいね。


新しいブログでは
本「スピリティズムによる福音」からの抜粋以外にも、
善霊エマニュエル からのメッセージを発信していくつもりです。

ぜひ、日々の暮らしに役立ててください。




TEC-J ブログ担当より


序文

私達の持つ悪い性癖は私達の不完全な霊の結果であり、私達の肉体がもたらすものではありません。もしそうでないとすれば人間はいかなる責任からも逃れることができるはずです。私達の進歩は私達自身にかかっています。なぜなら、様々な能力を授かった人間は皆、物事を行うか行わないかを決める自由を持っており、善を行う為に不足しているのは本人の意志のみだからです。(第十五章、十、第十九章十二)


祈り

ああ、神よ。あなたは私に善と悪を区別するために必要な知性を与えてくれました。それ故、あることを悪いと認識したときはその誘惑に抵抗しようと努力しなかった自分が悪いのです。自分の欠点を認識するための妨げとなる自尊心や、欠点を改めずにいつまでも持ち続けさせようと働く悪い霊から私をお守り下さい。不完全である私は、特に○○○に欠けています。それに対し抵抗できないのはその悪癖に屈してしまう習慣を身につけてしまったのです。神は正義であるがため、私を罪ある者としてではなく、善にも悪にも同じように適応できるように創造されました。私が悪の道を進むのは私の自由意志が働いた結果です。しかし悪を行う自由が与えられたのと同じ理由から私は善を行わなければなりません。それにより、私は進む道を変えなければならないのです。私が今持っている欠点は、以前の私の人生から持ち続ける不完全性の一部です。それらは私の原罪ですが、私の意志と善い霊の助けによって取り除くことができます。善霊よ、私をお守り下さい。とりわけ、私の守護霊には、悪の勧めに抵抗し悪との戦いにおいて勝利を収めることができる力を与えて頂けますことをお願いいたします。私達の欠点は私達を神から遠ざける障害です。しかし、改められた欠点の一つ一つは神の元に近づく為に通らねばならない進歩の小道に記される新たな一歩となります。主よ、あなたはその無限なる慈悲によって、私の進歩の為にこの人生を与えて下さいました。善霊よ、この機会を無駄にすることがないよう、この人生を有益なものとすることができるように私を助けて下さい。そして神が私をこの世から連れ去ろうと認められた時、この世に生まれて来た時よりも進歩して出ていくことができますように。(第五章五、第七章三)


今日のレッスン

探せばあるものですね。
毎回毎回同じ失敗を繰り返すのですが、あきらめる勇気を持てるようになりたいです。
未熟だからこそ、福音は私にとっては密かな相談相手。
直感的な愛あるサポートを感じますが
でもそのメッセージに対して素直にはいと頷けない私。
本当にまだまだです😓😢😭


祈りによって人は善霊を引きつけます。善霊は、人が良い決断をするように助ける為、良い考えをひらめかせてくれます。それによって、人は困難を乗り越えるのに必要な道徳的な力を受け、正しい道からはずれている場合には、正しい道に戻されます。また、過った行動が引き付ける悪い考えから、自分を遠避けようとする意志を与えてくれます。何かの過剰な摂取によって健康を悪化させた人がいたとします。死ぬ直前まで過剰な摂取を改めることなく、健康状態が悪いまま苦しい人生を続けたとします。この人は自分の健康が回復できなかった事に関し、神に対する不満を訴える権利があるでしょうか。ありません。なぜなら、祈りによって誘惑に耐える力を得ようと思っていれば得る事はできていたはずだからです。

今日のレッスン
正しい道から外れているかどうかとても知りたい時があります。
選択を間違えて、たとえ良くない道を進んでしまっていたとしても
それも学び(試練)と受け止めていいものなのでしょうか。
最近、その答えを探すのに福音を必死にめくっています。
まだまだ修行が足りません😣😢
九、祈るということは神や霊の加護を求めることです。祈りによって、私たちは、私たちを指導してくれている者と精神的に関係を結ぶことができます。祈ることの目的には、願い、感謝、または賛美があります。私たち自身の為にも、また、他人の為にも祈ることができます。生きている者の為にも、また、死んだ者の為にも祈ることができます。神への祈りは、神意に基づき行動する善霊達に伝わります。善霊に伝わった祈りは、神にも伝わります。神以外の者に向かって祈るとき、神以外の者は単なる仲介者としての役割を果たします。なぜなら、何事も神の意志なしには生じないからです。


十、スピリティズムは、私達が祈る相手が、私達の訴えに答えてくれる時も、祈る相手に私達の考えが彼らに伝わる時も、どうやって思考の伝達がなされるのかを教えてくれています。そのことは、祈ることに対する私達の理解を深めてくれます。祈ることによって何が起きるのか理解するためには、空間を埋め尽くす宇宙フルイドのなかにある生きている者、死んでいる者の全ての存在を思い浮かべる必要があります。空間を埋め尽くす宇宙フルイドとは、地球上の空間を大気が包み、埋め尽くしているような状態にあります。宇宙フルイドは、意志によって衝撃を与えられると、空気が音を伝達するように、思考の伝達の手段となります。ただし、その違いは、空気の振動は制限されたものであるのに対し、宇宙フルイドの振動は無限に広がるというところです。ある思考が、地上の人間や、宇宙に存在する何者かに伝わる時、または、生きた者から死んだ者に伝わる時、或いはその反対の場合、空気が音を伝達するように、宇宙フルイドは連鎖状態となって思考を伝えるのです。この連鎖状態のエネルギ―は思考と意志の強さに直接関係があります。これによって、霊がどこにいたとしても、祈りは伝わります。また霊達はお互いに交信しあうのです。同じ様な方法で、霊達は私たちにインスピレ―ションを伝えてくれるのです。また、私達人間もこれによって遠隔地同士で連絡を取り合うのです。この説明を、祈りを単なる神秘ととらえ、その効力を理解しない人たちの為に送ります。しかし、祈りを具体化する為のものではありません。ただ、祈りの効力というものをより理解し易くする為のもので、祈りが直接的に、積極的に物事に働きかける力があるということを知る為のものです。しかし、だからといって、祈りの効力と神の意志に関係がないわけではありません。神は最高の万物に対する正義です。祈りを有効なものとすることが出来る唯一の存在だからです。


今日のレッスン

祈りのパワーは絶大なもの。
でも自分が何かの影響を受けている時は祈ろうという発想に至らない時があります。
とにかく、助けて助けて!どうすればいい?どうしよう!とパニック…
本当に情けないですがもっと気持ちを強く持って、何かあった時はすぐに祈る!を心掛けたいものです。



私の名のにおいて二人でも三人でも集まるのであるならば、私はその間にいます。(マタイ、第十八章、二十)

序文

イエスの名において集まるには、物理的に集まるだけでは事足りません。善の方向を向いた意志と思考の共有によって霊的に集まることが必要です。そうすればイエスはその集会の中にいることになり、イエスもしくは純粋な霊がその代わりとなって参加します。スピリティズムは霊がどのように私達の間に存在するのか私達に教えてくれます。流動的、霊的な体によって、または可視状態になるときにはその姿によって、私達はその存在を知ることが出来ます。等級が高ければ高い程その光の放射する力は大きく、その遍在性の才により同時に多くの場所に存在することができます。そうするには、思考の光一筋を送るだけで可能となるのです。これらの言葉によってイエスは統合と同胞愛の力を示したかったのです。人数の多少が霊を呼ぶのではありません。もし、そうであったなら、イエスは二人、三人という代わりに、十人、二十人と言っていたでしょう。そうではなく、お互いを励まし会う慈善の気持ちなのです。そのためには二人でも十分ですが、たとえ祈りがイエスに向けられたとしてももし二人が別々に祈るのであるなら、また、なによりもお互いを思いやる気持ちが存在しないのであるならば、二人の間に思考の共有はありません。もしお互いに警戒しあい、憎しみ、妬み、嫉妬を抱くなら、流動体の思考の鎖は、同情の衝撃によって一つに結びつく代わりに反発しあうことになり、そうであれば彼らはイエスの名において集まっていないことになります。そのような場合、イエスはその集会の口実でしかなく、真なる集会の目的ではないのです。(第二十七章、九)だからと言って、イエスがたった一人の言うことを聞いてくれないわけではありません。彼が「私を呼ぶ者は誰でも耳を傾けましょう。」と言わなかったのは、なによりもまず、隣人への愛が不可欠であり、それは個人でよりも複数が一緒になった方が証明しやすいからです。なぜなら、いかなる個人的な感情も隣人への愛を否定することになるからです。と言うことは、大勢の集会において、二、三人だけが真なる慈善の気持ちで心から結ばれたとしても、残りの人達が自己中心的な考えや世俗的な考えに気をとられているとすれば、イエスは後者達とではなく、二、三人の者達だけとともにあるのです。ですから、言葉や賛美歌やその他外見的な身ぶりが同時に発することによってではなく、イエスの人格そのものであった慈善の精神に基づいた思考を共有することによって、イエスの名において集会を開くことができるのです。(第十章、七、八、第二十七章、二―四)これが、心から善霊の協力を望むことのできる真剣なスピリティストの集会のあるべき姿です。